ヘンリー・ロバートスン『わたしのサクラニツカヤ』抄訳
ROBERTSON, Henry. 1987. In Memory of Sakranitskaya. London: Penguin Press
ヘンリー・ロバートスン(b.1941)はイギリスの作家で、サクラニツカヤと親交がありました。また、彼はいまや伝説となっているAPRの復刻にも貢献しています。APRがサクラニツカヤのLPを復刻するにあたって原盤としたレコードは彼の所有していたもので、そもそものプレス数が少ないなかで状態の良い円盤を見つけることができたのは奇跡的でした。彼がいなければ、サクラニツカヤの再評価はもっと先のことになっていたかもしれません。
In Memory of Sakranitskayaは作者ロバートスンのサクラニツカヤとの個人的な思い出をつづったエッセイで、サクラニツカヤの没後10周年を記念して出版されました。この書籍は国外では出版されず、イギリス国内でも重版に至らなかったためひっそりと絶版になりました。しかしサクラニツカヤについて扱った本は今日であっても数えるほどしかなく、貴重な存在です。このまま埋もれさせておくにはあまりに惜しい、と思った私は気づけばイギリス行の飛行機を予約していました。そうして現地の古本屋を探し回ってようやく手に入れた一冊がいま、手元にあります。以下に本文の和訳を掲載しますが、さすがに一冊丸ごと訳す体力はありませんから、個人的に重要と感じた箇所をピックアウトして抄訳することとします。また、私は実用英語技能検定の準一級にやっと受かるていどの英語力で訳者としては素人ですので、誤訳などあるかと思いますがご了承いただきますと幸いです。
彼女との出会いは今でも忘れない、1962年のまだ冬の寒さの残る2月のことだった。私は露西亜からなにやら怪しげなピアニストが来るというので冷やかし半分(半分どころではない)で倫敦のロイヤル・フェスティヴァル・ホールまで足を運んでいた。サクラニツカヤ、とかいったか。その人は露西亜ではかなりの有名人らしかったが、私はまったく聞いたことがなかった。それは他の人々も同じだったらしく、客の入りはまばらだったし、当日券も開場ぎりぎりまで売っていた。
しばらくしてステージに上がってきたのは手足が長くてひょろっとした小娘だった。小娘というのは比喩ではない。まさに彼女は小娘然としていた。華奢な手足は本当に骨と皮だけでできていそうな感じで、とてもピアノを弾く筋力はなさそうに見えた。顔立ちは露西亜人というよりは亜細亜系に思え、長くて真っ白い老人のような髪は彼女の若々しい相貌とはミスマッチであった。
当時20代も前半のくそ生意気な青二才だった私は、退屈な演奏をするようなら途中で出ていこうとまで考えていたのだが、最初の曲が始まるとそうもいかなくなった。1曲目はベートーヴェンの月光ソナタだったが、まだ若かった私はこの曲の1・2楽章を退屈な音楽と考えていて、レコードでは3楽章だけ聴くことも多かったし、たとえ聴いていても適当にしか聴いていなかった。だが彼女の「月光」は1楽章からしてあまりにも深遠で思わず見入ってしまった。それは眠気を誘う深遠さではなく、むしろ真逆のものである。聴く者にある種の緊張を強い、糸がピンと張りつめたような雰囲気で居眠りといったことは許されない。私が今まで「月光」の緩徐楽章について抱いていた苦手意識はなんだったのだろう。ところが衝撃はそれで終わらなかった。低音が好き放題に荒れ狂う3楽章、私は当時ホロヴィッツのレコードを愛聴していたが、ホロヴィッツでさえここまで好き勝手やっていなかった。サクラニツカヤがあまりにも鍵盤を強打するので、ピアノの弦が切れるのではないかと私は本気で心配したものだ(じっさい、二、三本切れたらしい)。コンサートに行ってピアノの心配をしたのは後にも先にもこのときだけである。
続く2曲目のハンマークラヴィーアは1楽章の最初こそ度肝を抜かれたが(なんと作曲者指定のテンポで弾いていた)、曲調が幸いして穏健な感じだった。大トリの熱情ソナタは予想通りというか傍若無人の限りを尽くした猛烈演奏で、うちの父親か祖父に聞かせようものなら卒倒しそうな勢いだった。低音が炸裂するばかりかテンポも自由自在に動くし、3楽章にいたっては解釈なのか単なる指のもつれなのかわからないほどだった。最後に転げ落ちるように終わるのもライヴならではという感じで印象的だった。終演後、私は興奮のあまり楽屋まで握手しに行ったものである。握った彼女の手が女性にしては信じられぬほど大きく、そしてピアニストにしては信じられぬほどひんやりとしていたことをよく覚えている。
当然そのままの勢いで2日目の公演にも行った。曲目はベートーヴェンの月光とソナタ26番、そしてブラームスのヘンデル変奏曲を弾いた。1日目の荒れ方に比べればまだ凡庸な感じだったが、それでも一般的な価値基準からすればじゅうぶん非凡といって差し支えない出来だった。後から本人に聞いた話だが、ヘンデル変奏曲は英国受けを意識した選曲だったらしく、今まで取り上げたことのないレパートリーだったそうで、初めて譜読みをしたのは英国行の飛行機の中だったというから驚きだ。
ところで、この2日間のリサイタルはロンドン・タイムズの演奏評でボコボコに酷評されたそうだが、その記事を書いた記者は当日会場に聴きに来なかったか、そうでなければ客席で爆睡をこいていたのだろう。もっとも、あの演奏を目の前で聞かされて優雅に居眠りを決め込んでいられるような人間がそういるとも思えないが……。
1962年早春のコンサートをきっかけに、それから1年ほどのちには私とサクラニツカヤは定期的に手紙のやりとりをする仲になっていた。彼女の筆致は決して達者ではなかったが、人に読まれることを意識した大きく丁寧な字で好感が持てた(字が汚いのは左利きだからだと言っていた)。露西亜人の彼女にとって英語は簡単なものではなかっただろうが、最初のうちはたどたどしい文法ながらも一生懸命に書いていたし、しばらくすると恐るべき吸収力であっという間に上達していった。一方の私はというと、私のほうも彼女からいろいろな露西亜語を教えてもらったのだが、結局私が覚えた言葉といえばздравствуйте (hello)とменя зовут (my name is...)ぐらいのものだった。
彼女がコンサートで英国に来たのは結局私が聴きに行ったときの一回きりだったが、プライヴェートな旅行では倫敦に来ることが何度もあり、一緒にお茶をすることも多かった。彼女についての私の一番の疑問は果たしてそう簡単に渡航許可が出るものだろうかということだったが、実際渡航許可は下りていなかったらしい。後で聞いた話だがソ連当局も彼女の奔放さには手を焼いており、勝手に国外渡航するので厳重な監視をつけていたが、どれだけ監視していてもいつの間にかいなくなっているし、それにしばらくするといつの間にか戻ってきているので仕方なく黙認しているらしかった。
一見矛盾しているかもしれないが、サクラニツカヤという女性は約束は守らないが借りは返すタイプの人間だった。約束といってもたいそうなものではない。待ち合わせに遅れるとか場所を間違えるとかそういった些細な類いのものである。特に時間に遅れることはほとんど毎回のことだった。また、約束の話ではないが、一緒に食事をしたときに彼女が財布を忘れたので私が奢ったことも多かった。これに関しては彼女は奢ってもらったことをずっと覚えていたらしく、あるとき「今までのぶんのお返しだ」と言われて3枚ばかりの直筆サイン入りのLPをもらった。結果的にサクラニツカヤが残した商業録音はこの3枚が全てとなった。もちろん内容もたいへんに素晴らしく、今でも私の最も大切なレコードの一つである。