![]() 森桜子さん。拾い物です。 |
最近、森桜子さんというピアニストを知りました。きっかけは偶然手にした日大菅の自主制作盤。曲目はプロコフィエフのコンチェルト3番とチャイコフスキーのコンチェルト1番。ソリストは「森桜子」という女性の方。まったく知らない名前です。アマチュアの方でしょうか。まあいずれにせよ無名のピアニストがこのコンチェルトを私が満足いくレベルで弾きこなすのはありえないだろう——と思っていました。ところがいざ再生してみるとこれがどの部分をとってもすごいすごい。とにかく指が回る回る。オケが全然ついて来られていないのが玉に瑕ですが……。プロコフィエフは圧倒的な推進力で3つの楽章があっという間に終わってしまいます。というかこれ、アルゲリッチより速いですね。チャイコフスキーも才気爆発の演奏で、1楽章の序奏のテンポが気に入らなかったのか、ピアノが入った瞬間に急に速くなります。1楽章最後のオクターヴ進行をインテンポで弾いているのは気持ちいいですし、待望の3楽章も大爆発しています。っとここでピアノ、最後の「リストの半音階」を1オクターヴ延長。そしてアドリブに対応しきれずガラガラと音を立てて崩壊していくオケ。なかなかやってくれますね。1953年ホロヴィッツ/セル/NYPOのライヴを思い出してしまいました。アンコールで弾いたホロヴィッツの『星条旗よ永遠なれ』もあまりに鮮やかな演奏で開いた口がふさがりません。
ジャケ裏にはソリストと団員の写真。ソリストの森さんはすらりとして髪の真っ白な方で、演奏の過激さとは裏腹に、子供のような、人の良さそうな笑顔が印象的でした。顔立ちはかなりお美しい。天は二物を与えるとはまさにこのことでしょう。こんなすごい人が埋もれているなんてとても信じられません。ざっと調べてみたところでは、コンクールでの入賞歴はなし。メジャーレーベルからのcdリリースもありません。ところが、あちらの国、つまりロシアではそれなりの有名人のようです。ロシア語のサイトを検索するとなにやら「サクラニツカヤの再来!」と褒めちぎっているサイトがいくつか出てきますし、じっさい「サクラニツカヤ賞」とやらも受賞しているそうです。けれどもふと思います。そもそもサクラニツカヤさんって誰?
リサーワ・ゲンリホーヴナ・サクラニツカヤ(1893-1977)は、ソヴィエト連邦出身のピアニストで、20世紀初頭から後半にかけて活躍しました。母親のウィシーナ・サクラニツカ(Vishina Sakranitska)もピアニストで、ショパンやリストに師事したと言われています。とにかくすべてがケタ外れな人で、極度の練習嫌いで1日に15分しか練習しなかったとか、12度の和音を楽に掴むことができたとか、神話めいたエピソードには事欠きません。その生涯はいまだ謎が多く、実は男性だったとか、そもそもサクラニツカヤというピアニストは存在しなかったとか、複数人で同じ名義を共有していたとか、いろいろな噂がささやかれています。恩師についても同様に判然とせず、最有力のコチャルスキ説・ローゼンタール説・H. ネイガウス説の3つを筆頭として様々な憶測が入り乱れています。。
演奏スタイルはハッタリに満ち溢れた典型的な「爆演型」で、超絶技巧にものを言わせてすべてをなぎ倒すような演奏でした。その火山の噴出のような激しいスタイルは「東欧の弾丸列車」とも呼ばれています。コンドラシンやスヴェトラーノフといった爆裂系の指揮者とは相性がよく、特に最も多く共演したスヴェトラーノフとは個人的にも親しかったそうです。けれどもあまりに極端な弾き方のためか彼女の演奏には否定的な評価が多く、ロンドン・タイムズの演奏評では「こんなものはベートーヴェンでもなんでもない!」と書かれましたし、評論家の池本義には「空気も読めない、楽譜すら読めないバカ」と誹謗中傷まがいのことまで書かれています。たしかに大爆発一辺倒のようなことは否定できませんが、少なくとも爆演マニアにとっては諸手をあげて歓迎するほどの価値のある演奏だと思われます。
サクラニツカヤは生前は首都モスクワを中心に熱狂的な人気を誇りましたが、商業録音や国外での演奏をほとんどしなかったこともあり、死後はまるで今までの名声が嘘だったかのようにすっかり忘れ去られてしまいました。しかし20世紀も末になりコンパクトディスクの時代が到来すると、徐々に状況に変化が生じます。まず英国のAPR社が今まで存在しないと言われてきたスタジオ録音をリリースし、それを皮切りにロシアのVista Vera、フランスのTahra、韓国のスペクトラム(そしてこっそりConcert Artists)と、ヒストリカル系レーベルの堂々たる顔ぶれが次々に未発表の音源をリリースしました。とくに本場Vista Veraの情熱はすさまじく、『サクラニツカヤ・エディション』と銘打って10枚ものcdをリリースしたほどです。この流れに乗ってサクラニツカヤ賞も創設されました。さらに2017年には没後40周年を記念してスクリベンダムから40枚組という驚愕の箱が発売されましたし、リバイバルブームはまさに現在ピークに達している感じです。とは言ったものの、それはロシア国内に限った話で、それ以外のヨーロッパでは相変わらずの知名度ですし、日本にいたってはほとんど無名に近いままです。
ちなみにサクラニツカヤ賞は1999年に創設されたもので、モスクワ放送局によって主催されています。選考基準は「プロ・アマ問わず、とにかくすげえヤツ」(超訳)という見るからにテキトーなものなのですが、これはサクラニツカヤ本人の大雑把な性格を反映してのことだそうです。ですが基準のいい加減さに反して選考は厳格をきわめるようで、今まで受賞した音楽家は数えるほどしかいません。過去にはアレクセイ・スルタノフやヴァレリー・クレショフ、アレクセイ・グリニュクなどがその対象になっています。
ところで森桜子さん、「サクラニツカヤの再来」といわれるだけあってサクラニツカヤ本人にかなり似ています(※)が、これは果たして偶然なのでしょうかね。ロマンチストな私は生まれ変わりを疑ってしまいますし、現実的な線では何らかの血縁があるというのもアリでしょう。とにかく、この2人の「東の弾丸列車」が1日も早くスポットを浴びて正当に評価されることを願うばかりです。
※最近の研究で、サクラニツカヤ本人とされる写真はすべてまったくの別人だったと証明されたそうです。