気にしないでください。見ていて楽しい気分になれましたし……。それに、無理を言ってこんな時間に事務所に通していただいたのは私ですから。 はい。それで間違いありません。 はい。少し距離はありますが、歩いてきました。 ええ。私もそう思います。つい周りを夢中になって看板や電柱にぶつかる時もしばしば……。うっかり、知らない人の家に入りそうになったこともありました。 えっ……? 私がよく飲むのはコーヒーですが……。 お気を遣わせてしまって……ありがとうございます。 私は一時期、海外に住んでいたのですが……その時に母代わりだった人が、毎朝コーヒーを飲んでいたので、私も自然と……。 ええ。……何だか昔を思い出してしまいました。 ええ、とても怖くて……。腕ききの探偵さんがいると聞いてここに。 はじめまして。よろしくお願いいたします。 護衛と……あと、捕まえてほしいんです。 十分だと思います。その……連続殺人犯ですから。 ここ、椿丘市を中心にして起きている連続殺人事件……ご存じですよね? はい。そうです。 ええと……その……言えないんです。 ZENA……超能力を研究している団体の……重大な機密に関わることなんです。 狙われる理由は、ZENAのみならず天菱グループにも大きな影響を及ぼすものです。ですから……その……。……言えません。 はい。警察に対して、事情を説明しないわけにもいきませんから。でも私、どうしても父に迷惑をかけたくないんです。たとえ私の命が危うくなろうとも……父には……今は……これしか言えません……。 ……ありがとうございます。 あ……あの……依頼は……? えっ……いいんですか……? 私、何も説明してなくて……それなのに……。 私としては大変ありがたいのですが……どうしてですか……? ………………! ……ありがとうございます。 はい。よろしくお願いします。 ……行きましょう。 お話しした通りです。たとえ自分が傷つくかもしれなくても、父のためになるなら、行きます。今は、事件を解決することが、何よりも父のためになる……私は、行きます。 ……はい。 えっ……? その……。 その……伊々森さんという方は、存じません。 ……3年ではなくて、ですか? 3人の被害者については、また別の事件なのでしょうか……? さすがにそれは……。銃に仕掛けがあれば、警察の方が気付くでしょうし……。 その目は……義眼、ですか? この部屋は調べないんですか? ……携帯、電波が届かなくなってます……。 その……申し訳ありません。私のせいで、こんなことになってしまって……。 ですが……私が不用意に依頼をしなければこんなことには……。 京介さんに限って、そんなこと……! ……お父様が……? 何か……? …………。そう……ですか……。ごめんなさい。私……家族というものがよくわからなくて……何も言えなくて……。 何を犠牲にしても守りたいものはあります。けれど私は、今までの人生で一度も、娘として扱われたことはありませんから……。 ……少し、お喋りが過ぎましたね。私のつまらない話をするよりも、急いでここを出ましょう。 出入り口の扉が電子的に制御されているのなら、このパソコンで何かわかったりしないものでしょうか? うーん。扉を開けられそうなものではありませんね。 後で、館の持ち主さんにあやまっておかないといけませんね。 でも、このままここでじっとしていてもいずれは煙と火災に巻き込まれることになりますよね……。 ですが、その時計は非常用電源を落とした後にゼンマイを回さないと、どかせられないとありました。 わかりました。では、お心使いに感謝してお先に失礼します。 企業……秘密……ですか? え……そんな、私なんて……。それに、そういうことを仰るのは、その……真理さんに悪いのでは……? あの……私が聞くのも変ですが、真理さんはそれでいいんですか? モテるかどうかと言うより……心構えの問題だと思うのですが……。 口説くって……。 いえ、もとより、私に不都合はないのですが……。 そうですね……私も少し、それが気になっていました。 いえ、待たせただなんてとんでもありません。朝早くに対応していただいて、感謝しています。 それはもちろんかまいません。こちらから伏してお願いしたいくらいですし……。 わかりました。ご配慮に感謝します。 えっと……どういうことでしょう……? わかりました。ご厚意に感謝します。 本当に、よかったですね。 それは……その………………。 では、京介さんの記憶はどうなるのでしょう? 京介さんだけはネジを隠したことを知っているようですが……。 あの……私も一緒に行って、捜査に協力したいんです。 そうじゃないんです。私の力で、お役に立てるかもしれない。私も、超能力者なんです。 いつもは能力を隠しています。白い目で見られるのは恐ろしいですから。ですが、京介さんの能力を教えていただいておきながら、自分が何も喋らないというのは、不誠実です。 私の能力は、サイコメトリーです。手で触れることで、物の持っている記憶、情報を知ることができます。例えば、このパソコン。ちょっと失礼しますね……京介さんは、午前3時頃、このパソコンで作業をしていたはずです。調べていたものは、椿丘市で5年前に起きた、マンションのガス爆発事故、そうですね? ……どうでしょう? 絶対に、お役に立ってみせます。私も捜査に加わらせてはいただけませんか? えっ……? 京介さんが責められるようなことは何も……。 ……はい。よろしくお願いします。 ご迷惑をかけないようにがんばりますね。 歩くこと……ですか? 特に苦手とは思ってませんが……。 異変と言われましても……。 手紙……。父のところになら、何かあったかもしれません。私のところに届くものなんて、デリバリーピザのチラシぐらいで、重要なものは何も……。お役に立てず、ごめんなさい。 身の回りに異変があった。……ということはありませんね。お役に立てず、ごめんなさい。 ……えっと、そんなに有名な店なのですか? 掃除ロボット……。うちには小型の物があるのですが、あまり使いませんね。自分の居場所は、自分で整えたほうが、やはり気分がいいですから。 あの時のまま……ということは、逆に気になるようなものを探すのも難しそうですね。 ……あの、先ほど警察の方も居ましたが勝手に入って大丈夫なのですか? 正直言って、怖いです。次は自分がこうなるかもしれないと思うと……。 お父様は……殺されたのですか? 確かにここは、人目につかない場所ですから、さほど問題にならないのかもしれませんね。 やっぱり、ありましたか……。 はい。ですが、初めにお伝えしたように、父に会ったりこの事を伝えるのは……。 えっ……? そ、そうでしょうか。 はい……。その……ごめんなさい……。 やっぱり、犯人が……。 あっ、それは名案ですね。 はい。そうするのがいいと思います。 もちろん、京介さんが残したものではないわけですよね? つまり、犯人が過去干渉の能力者であることが決定的になったということ……。 そうですね……。研究者は目の色を変えるでしょう……。 本当にいいんでしょうか……? 捜査のためとは言え、偽造した通行証で入るなんて……。 いえ、決して私のためではなく……京介さんたちが行くのであれば、私も一緒に行きます。 ……わかりました。中に入って捜査しましょう。 ZENAは超能力の研究を中心として、生体研究やエネルギー研究など医学から物理学まで様々ですね。 そうですね。どんな能力が存在するのか、使っている時の体の状態を検査したり。 はい。ここに入るのが初めてで、父が仕事している場所に行ったことはないんです。幸い、ばったり合うようなことはなさそうですが。 ……っ!! …………。 こんな小さなカードに超能力妨害チップを仕込むなんて、本当にすご腕みたいね……。 ……残念だけど、茶番はおしまい。 なかなかに新鮮でスリリングな体験だったわ。つい長引かせてしまった。けど同時に、吐き気のするほどのおぞましさも感じた。だから感謝はしない。特にあなた、京介くん。あなたが義手と義眼の力を使うたびに、憎しみに震えたわ。でも安心して。私の目的は復讐ではないから。 ……失礼。 はい。もちろんです。よろしくお願いします。 えっ? お願いしたのは私ですが……。そんなにあっさりと決めてしまっていいんですか? えっと……その……連れて行っていただけるのは嬉しいのですが……。 あの……真理さん、おそらく京介さんは、そういうことを仰りたいのではなくて、つまり……。 ええ。もちろんそのつもりです。よろしくお願いします。 あの……これって何でしょうか? いえ……それはその……勝てないと思いますから……。 あの……どれだけのハンデをいただいても、絶対に勝てません……。 ……泳げないんです。 その……すみません……。 ……はい。その通りで……。……えっ? あの……啓示とは……? そ、それは……。なんだか、申し訳ないですし……。 えっと……。……とても疲れました。 そんなことは……。とても優しく教えていただいてます。こんなことって、あるんですね……。 疲れることをこんなに嬉しく思えるなんて、初めてです。 えっ……? 感謝するばかりで、責任を取るようなことは何も……。 そんな、1000メートルなんてそれだけ泳げるようになるのは、いつのことになるか……。 ……あっ……! あの……その……。……ありがとうございます。行けるのであれば……ぜひ………………。……ごめんなさい。 もうひと泳ぎしてきますね。 ええ……本当に、そうだといいんですが……。 えっ……!? あの……仰りたいことはわかるのですが……その……泳げないふたりでプールに来て、何をすればいいんでしょう? ……ふふっ。それは、デートのお誘いということですか? そうですね……。お約束はできませんが……この事件が無事に解決した時……その時、京介さんに抱いている気持ちによっては、考えてみますね。 そうですね。もしかしたら、万一の時の心残りが、少し減るのかもしれません。 いえ、こちらの話で……大したことではないんです。私、もう少し泳いできますね。 ……っ! ……ふたりそろってこんなところに何しに来たわけ? みんな出払ってしまったのに。 ものは言いようね。私を捕まえに来たということでしょ? 言い分がどうあれ、私のすることを邪魔するというのなら、それは同じこと。でも、安心して。天菱エフセイを殺せば、私の計画はおしまいなの。 捕まったうえで、この事件に律は全く関係ないと、証言しなければならないもの。本当は、協力者の手を借りたうえで、過去干渉を使って、いずれ脱獄するつもりだったけど……今の状況で、それはかなわないでしょう。律が導く新世界をこの目で見たかったけど……。残念ね。それでも、こんなちっぽけな私が、律の役に立てたのなら、喜ばしい限りだわ。 わかったふうなことを言わないで!! きれい事なんて通用しない場所で、私と律は一緒に耐えてきたの! 律は甘いから、怒るかもしれないけど……そんなことじゃ世界は変えられない。だから私が、ほんの少しでもその甘さを埋める……お喋りが過ぎたわね。情けをかけてあんたたちを生かせば、いずれ律の障害になる。ここで、きっちり殺すわ。 ……っ!! あははっ。そうね。綾名玄斗。ずいぶんあっけなく死んでしまったけど。誰かに読ませたくて残したわけじゃないけど……あなたは見たはずよね。私が現場に残した、“AVENGE”の文字を。律を苦しませたあの男だけは、私がこの手で殺したかったのよ。 動揺しないのね。 それだって、思い上がりよ。 吐き気がするわ。今さら助けなんかいらないのよ!! 律と私は、あの時あの場所で助かりたかったんだから!! 私を止めることが、あなたにできるって言うの? 問答をしてても時間の無駄みたいね。かと言って、あなたに正面から向かうのは得策ではなさそうね……変えさせてもらうわ。 ……くっ……! よくまあ……こんななめたマネを……! そうみたい。お招きありがとうと言えばいい? …………。 かもしれないわ。 ついさっき、見つけたわよ。……ほら。 本当に……なめたマネをしてくれるものね!! よく言うわね。自分であんなものを仕込んでおいて……! あなたたちの物だから返す、と言いたいところだけど、とっくに細切れになってるわ。 親子そろって、私を苦しめるのね。 真理の言う通りね。もし京介が、こざかしい小細工をしていなければ……ね。 まるで道化ね。哀れむこともできやしない。それで、どうするの? 私を捕まえる? もちろん私は抵抗するけど、まともにやり合えば、十中八九あなたたちが勝つでしょうね。 話……ですって? あなたならまだわかるけど、その子と? 恐ろしいわね。今度はいったいどんな罠なのかしら? 今さら、信じられるとでも? 真理、あなたが何か話している間、私はここから逃げる方法を考えるわ。それでいいなら、どうぞ話して。 こんなことになるなら、紅茶のひとつでも置いていて欲しかったわ。京介も気が利かないわね。 遠慮しておくわ。こんな無様な姿を余計に誰かに見られるなんて、まっぴらよ。 そうね。ここから逃げる方法を考えなくちゃいけないし。 無病息災であるとは言えるわ。状況は最悪だけど。 京介は、この子に何も話してないわけ? 助手なんでしょう? それなら、事件が起きた経緯はわかるでしょう? 律の存在も知っていたようだし。 ……どうして? 新世界の指導者に従うのに、何か理由が要るの? ……たいしたものね。京介、この子に事務所を譲って、あなたが助手になったらどう? そんなこと、気安く話せることじゃないでしょ? ……私はあなたをだいぶ過小評価してたみたいね。 …………。……律は……律は、私を人間にしてくれたの。 律は、私に人として生きることを教えてくれた。私が研究所に入れられたのは、まだずっと幼かった頃……その時の自分が何歳だったのかも覚えてないし、それまでどう暮らしていたかも記憶にない。私は自分が“人間”であるということも知らず、実験材料にされ続けた。そしてそれが、“当たり前”であるとさえ思っていた。そんな日々が何年か続いた後、律が研究所に入れられたの。私と律は、それから、同じ部屋で過ごした。律はもちろんだけど、私も、強力で危険な能力者だとみなされていたらしいわ。厳重に管理された部屋に、ふたりとも入れられたってわけ。もちろん超能力は使えない。けど、超能力さえ封じてしまえばただの子供だから、過剰な拘束はされていなかった。彼らにしてみれば貴重なモルモットなんだし、意味なく傷つけたくもなかったんでしょうね。私はずっとひとりで過ごしてきた。同居人に戸惑う私に、律は近づき、そしてわからせてくれた。私が人間であると。律は教育を受けてから研究所に連れられてきた。年齢以上に頭もよかった。そんな律は、私に様々なことを教えてくれた。外の世界のこと、学校で習うようなこと、人の気持ちのこと、本来あるべき人の姿のこと……。……大変だったでしょうね。なにせその時、私は日本語もろくにわからなかったんだから。律に何もかもを教えてもらって、私は初めて、自分が実験材料ではなく、ひとりの人間なのだと知ったの。私が見る、世界の全てが変わったのよ。感謝しようとしたって、何をどうしても足りないわ。律がそうしてくれなければ、人間としての凪瀬月子はどこにもいなかったのよ。昔語りは、このあたりで十分よね? “救う”なんて、生やさしいものじゃないわ。私という存在は、律のもの。それなら、その存在を律のために懸けなくてどうするの? これだけ説明してもまだ足りないということ? 律がそれを望むなら、そうするわ。けど、律にはやることがあったのよ。全ての超能力者を救うために新天地を創りあげることを、律は望んだのよ。 …………。 ………… 討論会だったら、そっちに軍配が上がっていたかもしれないわね。 残念ながら、タイムアップみたい。私はここで終われない。まだ、命を燃やせるなら……。……その全てを、律のために使う。どうせ悪あがきをするなら、少しくらい派手にやりたいところね。 あなたたちは強い。けれど、ふたりしかいない。複数の方向から攻撃されれば対処しきれない。逃げる隙は生まれる。ここがキッチンだったら、致命傷を負わせられたかもしれない。残念ね。 私たちの過去干渉能力が、念力を含むものであることは京介も知ってるわね? なら、簡単でしょ? ここにはたくさんイスがあるんだし、全部飛ばしてぶつけてやれば、逃げることくらいはできる。 なら、視ればいいのよ。この瞬間……“今”のこの部屋を視れば、念力が使えるということでしょう? そう。どうにか手に入れた分を、すでに私は自分に投与している。本当はもっと欲しかったけど。律の力になりたかったし、何より……。……律と一緒に死にたかったから。 そうよ。ねえ? ひとりで生きても、律のものじゃなくなった私に、いったいどんな意義があるの? ……私は行くわ。邪魔はさせない。 ……どういうこと……!? ……どうして……ッ……!? 能力は使えているはず……! どうして……。イスが無理に押さえ込まれている……? ……念力と……透視……。……あの子が……!? あの子まで……。神に愛されたあの子まで私の邪魔をするというの……? 私が間違っていると、そう言いたいの……!? “間違ってる”ですって……? あなたは、いったい自分がどれほど正しくて、人を断じようというの? とても、美しい話ね。吐き気がするわ。 あなたが律のことを語らないで!! …………。……心配要らないわ。 仮に、もし、律が何かを間違うことがあったとしても……それは、“彼女”が指摘すればいいのよ。 そう。彼女……。律にとって、一番大切な人。どんなにそばにいて、同じ月日をどれだけ重ねても、私は一番じゃないの。それならば私は、律のために、律の意のままに動く。……それでいい。もし私が、何かを間違うとしても……私はその間違いとともに、律の前から消えるわ。それでいいのよ。 あなたの気持なんか聞いてないわ。第一、あなたたちが、そんなに偉そうに私に講釈できるわけでもないでしょ? 京介の腕と眼が、私たちの犠牲によってできた物であることを、どう言いつくろうの? 人体実験の成果を買い取ったIXGが、それをもとに作り上げた腕と眼……その事実はどうやっても消えない。 律の機械操作によって、私の過去干渉を発動させる機械……。……おぞましいわ。 あら、真理には話してなかったの? そうね、捜査には関係ないものね。私からも言ってあげるわ。あなたちは“間違ってる”。私たちの苦しみからできた物をそ知らぬふりで自分の力にして、その力をもって正しさを語る……。……本当に、吐き気がするのよ。何度でも言うわ。あなたたちは、間違ってる。 ……本当に、美しい絆ね。 何も知りやしないのに、いい加減なことを言わないで! そんなこと、私は望んでないわ。あなたたちに理解してもらおうだなんて、少しも思わない。もう話すことは何もない。さあ、さっさと私を捕まえたらどう? 真理との話は終えた。私の試みは失敗した。廊下には人がいる。もう、私を捕まえるしかすることはないでしょう? それとも、目的は捕まえることではないと、私を救いたいのだと、そう言うの? 自らの振りかざす正義が、間違いだと知って、それでも? 律が……? 私を? ……もとより、選択肢なんてないでしょう? ここにいれば、捕まるだけだもの。話が本当で、それが律の望みだと言うなら、行くしかないしね。 そうね。あなたがどんな理屈でごまかしても、あなたの間違いが消えないのと同じに。私に正しさを求める前に、まずはあなたが自分の腕と眼を外したらどうなの? ……バカバカしい。くだらない茶番だわ。そう言うのなら、さっさとその力を目的のために使ったら? 生殺しなんて、時間のムダよ……律はね、ムダな時間を嫌うのよ。さあ、さっさと私を捕まえたらどう? 真理との話は終えた。私の試みは失敗した。廊下には人がいる。もう、私を捕まえるしかすることはないでしょう? それとも、目的は捕まえることではないと、私を救いたいのだと、そう言うの? 自らの振りかざす正義が、間違いだと知って、それでも? いったい何……? 間違いを認めると言うの? ……人間……ですって……? 冗談じゃないわ! 今さら人間だと認めるだとか、悪い冗談にもほどがある!! 今さら何かを話すなんて、やっぱりナンセンスね。もう話すことは何もない。さあ、さっさと私を捕まえたらどう? 真理との話は終えた。私の試みは失敗した。廊下には人がいる。もう、私を捕まえるしかすることはないでしょう? それとも、目的は捕まえることではないと、私を救いたいのだと、そう言うの? 自らの振りかざす正義が、間違いだと知って、それでも? いったい何を言ってるのかしらね。あなたを笑ってあげたいけれど、それすらも生ぬるいわ。それこそが、“間違っている”と言うのよ。あなたが誰かを救いたいと思うことはただのエゴに過ぎないわ。それはあなたの勝手。けれど私がそれに協力してあげる義理はない。私の許しがなければできないと言うなら、そんな決意は捨ててしまいなさいよ。もういいわ。傲慢なあなたと話すべきことは何もない。さあ、さっさと私を捕まえたらどう? 真理との話は終えた。私の試みは失敗した。廊下には人がいる。もう、私を捕まえるしかすることはないでしょう? それとも、目的は捕まえることではないと、私を救いたいのだと、そう言うの? 自らの振りかざす正義が、間違いだと知って、それでも? ずいぶんなやり方ね。たかが小娘ひとりに、社長秘書さんがここまでするわけ? 本当に、美しい絆を口実にして下劣なことをする人が多いのね。 ……神ですって? ……全く思い当たらないわね。 …………。 ……早く……。……早く先を言いなさい!! …………!! 私が……律のものでは……。……なくなった……? ……あはっ。あなた、口が達者だわ。私の一番動揺するところを突いて、よくもそんな嘘をぺらぺらと……。 どこが! 私をこんなふうに待ちぶせしておいて!! ……嘘……嘘よ……凪瀬月子は、律のもの。捨てられることなんてない……! そうでしょ? だって私は、律が望んで、律によって創られた存在なんだから! 私は、律に存在を許されてここにいるのよ!! ……えっ……? どこと……? 誰と? ……律……? 私の声が、聞こえてるの……? どうしたの……? 律……。そんな他人行儀に言わないで。いつも通りに話して……? 律に友と思われなくても仕方ないわ。私はあなたに従わなかったんだから。でも、私はあなたのものでしょう? どうして? 他の誰かの前のようにそんなふうに丁寧に話す必要なんて、どこにもないでしょう? …………!!! ……自由……懐かしいわね……研究所にふたりでいた頃は、ずっとそれだけを欲していた。皮肉なものね……。研究所を出てから、ふたりともそれを望んだことはない。ねえ? 律が自らに役目を与えたように、今もまだ苦しみの中にいるように。私は、自らの意義を捨てたくない。どんなに傷ついて、汚れたとしても、そのためならかまわない。だから……。……?でしょ……? ……嘘だと言ってよ……。お願いだから……。…………律!! 律のために……何もしなくていい……。……してはいけない……。……あ……あ……それが……律の……望み……ああ……あ……! 私は……私はもう……。……律のものでは……ない……? いや……ああ……あ……!! いやあああぁぁっっ!! ……に、ほん ……つ……。……つき……こ。つきこ。 ……よろ……し……? ……ひっ……!! あはっ。あはははっ! 滑稽ね。失笑すらできない喜劇だわ。人まで殺しておきながら、そんな簡単なことさえ遂げられないなんて……律は悪くない……。私……私が……! 私が……! 約束を守れなかった!! あはははっ。あは。笑えないわ! ちっとも笑えないのよ! ……いないわ。 凪瀬月子なんて、もうこの世のどこにもいないと言ったのよ!! ここにいる私は、もう、人間ですらない。孤独の意味さえ知らなかった、ただの……実験材料よ。 もうその名前を思い出させないで!! ……どうしてここまで来たの? 私を捕まえるため? なぜ、ひとりにしてくれないの? わざわざ警察に捕まりに行く間抜けな犯罪者なんてそうそういないでしょう? なんて素敵なきれい事。……でもね、遠慮させてもらうわ。理想論だけじゃ成り立たない。だから、強くなったんでしょう? だから、ここへ来たんでしょう? もうとっくに、この倉庫は包囲されているんでしょうね。 どういうこと? あの連中が諦めるとは、とても思えないわ。 人を疑うのだって、今の私には疲れるのよ。少しは遠慮して。 信じられる? だって、そんなことをしたって、あなたには何の得もないでしょう? 自分の都合で、そんなに勝手なことをするわけ? 世迷い言だわ。仕事熱心なのも、そこまでいくと悪徳ね。それなら私も、あなたへの依頼をキャンセルする。それでどう? ……ひどい人ね。 いいから出てって!! さっさと私をひとりにしてよ!! あはっ……。……いいわ。それなら、あなたの願いを叶えてあげる。この倉庫のあちこちに、緑色をした結晶が置かれているのが見えるでしょう? それらは、ZENAが研究の末に作り出した物なの。私たちが超能力を使う際に必要になるエーテル……彼らは、本来は形を持たないエーテルの結晶化に成功した。今、あなたが目にしているのが、それ。エーテル結晶体というわけ。私がここに逃げ込んだのは偶然じゃないわ。ここがZENAの管理する倉庫で、エーテル結晶体が置かれていると知っていた。 とても、つまらないことよ。笑えないわ。エーテル結晶体は、莫大な量のエーテルを圧縮して作られている。高濃度エーテルなんかとは、比べものにならないほどの密度でね。 それは意味がないわ。飲みこんでも、お腹を壊すだけよ。高密度過ぎるから、人間が取り込めるような状態じゃないの。 こうして形になってはいるけど、エーテル結晶体はまだ研究の途上にある。それゆえに、とても不安定な状態で、この結晶は固体を保っているのよ。だから、私の持つエーテルでも反応させることができる。 エーテル結晶体は、膨大なエネルギーの固まりでもある。だから、私のエーテルを使って“着火”すれば……そのうちに、結晶は“爆発”する。 律に見放されたのであれば、律がいてくれなければ、私は人間ではいられない。私は実験材料に逆戻りして、今まで律とともに生きてきた凪瀬月子は、もう永遠に還らない……死なせてよ……実験材料でいるのは……嫌……消させてよ……。せめて、人間ではないこの身を、この世界から消させて。それだけが、私に残された望み……それに、あの研究所はなくなってしまったんだもの。実験材料としても、もう誰からも必要とされていないでしょう……? ……そういうことね。ここはZENAの特別な倉庫。極めて頑丈に造られているから、外に被害は出ないと思うけど……この倉庫内にあるものはひとつ残らず形を失い、無惨なチリになるでしょうね。もちろん、私も。……そして、あなたも。ふふっ。改めて考えてみれば、それも悪くないかもしれない。死出の旅路に連れ合いがいるというのは。あははっ……! そういうわけにもいかないわね。私が行くのは地獄で、あなたは天国に行くんだろうから。ねえ、どうして? 私もあなたも、自分の気持ちに正直に生きただけなのに……律と私がふたりで苦しんでいた頃、あなたはぬくぬくと、光の下で幸福を貪っていたはずなのに……。……どうして……? どうして私が地獄行きで、あなたが天国に行けるのよ!! 大それたことを言うのね。神でもないあなたに、そんなことができるとでも? できもしないことを言って私を救おうとしないで! これ以上絶望させないでよ! ……あははっ! いいわ!! あなたがどれだけ無力なのか、思い知らせてあげる!! 私たちが超能力を使う時、エーテルは体外に放出される。そのエーテルを消費することで、外部に対して超能力で働きかけられる。だから、超能力を使うのを途中でやめてやればいい。体外に放出されながらも行き場を失ったエーテルは、結晶体を刺激する。刺激された結晶体は、爆発へのカウントダウンを始めるわ…………。……律、もう会えないね。ふふっ……。……いい気味。 今さら痛い思いをするのはごめんだし、それに、気絶させてもムダなことよ。見えるでしょ? 私たちの入ってきた入り口にも、結晶体が置かれているのが。今、この倉庫から出るには、あそこを通るしかない。けれど、無理に通り抜けることはやめておいた方がいいわ。黒焦げになりたくなければね。 ……自分のを使えば? あいにくだけど、そういう類の物は持ってないわ。電波を辿られて居場所を特定されると厄介だから。 かわいくないわね。もっと脅えたらいいのに。 探偵さんなんだから、手を尽くして必死にここから出ればいいでしょ? ムダな努力だとしても、無様にあがけば? なら、さっさと行動に移したらどう? ……あなた、いったい何を言ってるの? ここに至ってまで理想を追っていたいの? 正気とは思えないわね。真理にとって、私なんかよりずっと京介のほうが大事なんだって、いくらなんでもわかるでしょ? 私なんかを気にしたことで、あなたがここから出られなかったら、真理はどうなるの? 私が死んだことでもし真理が悲しむとしても、真理はこの先も生きていけるわ。けれど、あなたがいなくなった時、真理はどうすればいいの? 生きるよりどころを失った真理は、どうやって生きていけばいいのよ!? それから先、生きる道なんて……どこにも……。 えっ……? ……だとしたら、何だと言うの? 意味がわからないわ。 相思相愛で、けっこうなことね。 どうしてそんなこと……!! 律は私を見放したのよ!? 言ったでしょ? 律の一番は私じゃないって! そんな無理やりの理屈なんて信じられるわけが……!! ……もし私が、世界を滅ぼしてくれと言ったら? それじゃあ、もし、真理を殺してくれと言ったら? とんでもない大嘘吐きね。 脱獄を手伝ってもらって外に出た後に、その腕を引きちぎってもいいのね? …………。……いいわ。あなたのことを、あなたの決意を……認めてあげる。言っておくけれど、私はあなたの言うことに何もかも納得したわけじゃない。あなたを認めて、敬意を表する。それだけよ。私の都合で、あなたを巻き添えにして死なせるべきではない。きっとあなたは、真理だけでなく、他の誰かの生きる支えになれる。私が律に出会ったことでこうして生きてこれたように、その誰かは、生きていける。部屋の隅で、ひたすらに脅え続けて、自分が何者かもわからないような人は、ひとりでも少ないほうがいいわ。だから私は、あなたを外に出すために全力で協力する。 さあ? わからないわね。今のところ、方々に謝罪して回る気にもなれないし。少し頭を冷やしてから、あなたについてる私の腕の使い道について、ゆっくり考えることにするわ。 さあ、急ぎましょう。余裕はないの。少なくとも、私にはね。話し込んでいた分のタイムロスは、私の協力によって埋めなければならないんだから……ああ、言っておかないといけないことがあるわ。まず、現在、この倉庫内では超能力が使えない。 私がエーテルを放出してしまったから、よ。言ったでしょう、特別な倉庫だって。私のエーテルを感知して、今は、超能力妨害装置が作動してしまっているはず。あなたが過去干渉を使いたければ、それを止めなくてはならないわ。 どのみち、私はもうここで超能力は使えないけれどね。 エーテル結晶体に着火した時に、私は自分の中のエーテルを全て放出してしまった。だから、私はこの場で過去干渉を使うことはできないの。まあ、そこに私の腕があるんだし、困らないわね。早く妨害装置を解除しましょう? そうね。その時は、その右腕を使って婚姻届けに無理やりサインさせてしまうのも、悪くないかもね。 さあ、誰かしらね。あなたと結婚する意思のある人なら、誰でもいいんじゃない? 好きにすれば? そう悲観的にならなくてもいいでしょう? あなたの人生はこれからまだまだ続くもの。あなたと結婚したいと思う趣味の悪い人が、もしかしたら他にも現れるかもしれない。 だって仕方ないわ。本当に趣味が悪いんだもの。さあ、ムダ話はここまで。少しでも早くここから出ましょう。 ええ、私が発生源に近づけば“それ”だと感じることができるはず。とても心地よい感覚とは言えないものよ。喜んで近づきたいとは思わないのだけれど……。 言ったでしょう。あなたを外に出すために全力で協力すると。自信たっぷりに言えることではないのだけれど、今の私にできそうなことはこれぐらいしかないわ。 ……わかったわ。どうぞ私を好きに使えばいいわ。 止めてくれ。とは言わないのね。 ねえ、あなたにわかる? あなたのお父さんのことだから、何かわかるかもしれないと思って。 なぜあなたのお父さんは、超能力妨害チップで自分の身を守らなかったの? たとえ身を守っていても、私はきっと止まらなかったと思うわ。それはそうなのだけど……SDカードに、十分な性能の妨害チップを仕込む技術があったのに……あの男は……自分の家も、体も、それで守ろうとはしていなかった。私みたいな超能力者に狙われるなんて、予想できたことでしょう? 家族だとしても、そんなものなの? 何よ……今さら……。…………ここから出たら、綾名玄斗の墓の場所を教えてもらえる? ……せめてものお詫びに、話くらいはしてあげるわ。私がした全てのことは、どうせ許されることじゃないけど。 ……バカみたい。どこまでも甘い男なのね……。 ええ。わかったわ。 ……そのスピーカーよ。私達の能力を妨害している装置は。 ええ、能力者自身が近づくと耳鳴りがして、頭を押さえつけられたような違和感があるの。 方法は簡単よ。人の耳には聞こえない音波を出しているから、それを止めればいいだけ。 ……そのスピーカーからも妨害音波が出ているのを感じるわ。 …………。まだ、ダメだわ。 そこから感じる嫌な感覚は無くなったのだけれど、まだどこかに同じものが存在するようね。他にも、音を出しそうなものが置かれていないか、探しましょう。 あなた、それを動かせるの? ……その電話機からも妨害音波が出ているのを感じるわ。 ……そのタブレットPCからも妨害音波が出ているのを感じるわ。 さっきまであった嫌な感覚が消えたわ。……ということは。 音波を出すプログラムを起動しなければ電源を入れたとしても問題はないはずよ。 ……ええ! どうかしたの? せっかくドアが開いたのに外へ出ないわけ? ……どういうこと? それなら、あなたからさっさと外に出れば? 私がここから出なければ、あなたは爆発に巻き込まれて粉々になるということ? それじゃあ、筋が通らないわね。いったい何が言いたいの? ここから出るために、私はあなたに協力していたんでしょ? ここを出たら、あなたについてる腕がもらえるはずよね? 生きる理由はそれで十分じゃない? 探偵さんって、変な想像ばかり巡らせるのね。好ましくないわよ。 …………。 名探偵なのもほどほどにしてほしいわ。見透かさないでよ。それで、どうする? 私が考えを変えなかったら、気絶させてでも連れて行く? ……さすがに、何も考えがないわけじゃないのよ。ごめんなさい。謝るわ。私はふたつの嘘をついた。 ひとつは、ZENA本部のビル内、あなたの仕掛けでおびき出された時。私は、あなたのお父さんのSDカードは、細切れになったと言ったけれど……本当は傷つけることなく、隠し持っていたの。あなたを出し抜くため、何かに使えるかもしれないわ。そのほうが自然でしょ? あなたが、妨害チップの効果範囲をごく狭くなるよう調整してくれたから、私自身は影響を受けなかったしね。もうひとつは、ついさっき、あなたにエーテル結晶体の説明をした時。エーテル結晶体を飲みこめば、お腹を壊すと言ったけれど……。……本当は、死ぬのよ。 結晶のエーテルは吸収できる。でも、その量が膨大すぎて、人体は破壊され、死んでしまう。さて、飲みこんだら死んでしまう結晶のかけらを、私は持ってるわ。小さなかけらだけど、死ぬのには十分過ぎる量だわ。 あなたと同じことをしただけよ。持っていたかけらに、SDカードを添えていた。妨害チップの効果範囲内にあれば、エーテルの影響を受けない。だから、私が放出したエーテルに反応することはなく、火はつかなかった。これは言わば、保険だったのよ。私は、爆発によって死にたい。実験材料でしかない哀れなこの体を、この世から全て消し去ってしまいたいから……あるいは、血と肉でできた何かに変わり果てる前……せめて実験材料であるうちに、全て……けれど、あなたたちは追ってくるでしょうし、間違いなく私の邪魔をする。もし、爆発によって死ぬことが叶わなかった時……せめて、ただ死んでいくことだけでもできるように、この結晶のかけらを隠し持っていたの。即死はしないはずよ。でも、いったん飲みこんでしまえば何もかも間に合わないわ。SDカードを持っていてよかった。こんな状況で役に立つとは思ってなかったけれどね。 私だって、そうしたいわけじゃないわ。あなたは鍛錬を積んできた。私より強いことはわかっている。けれど、私にだって、新世界の指導者を補佐する者として、多少の心得はあるのよ。あなたが私を気絶させるより早く結晶のかけらを飲みこむことくらい、たやすくやってみせる。 さあ、早く出て行って! 真理のもとへ帰って、私は消えたのだと伝えなさい!! いったい何を言ってるの? そんなに死にたいわけ? 早く行きなさいよ!! ……それが何か? いったい何を言うかと思えば……認めているから、こうして声を荒げているんでしょう? 生きて、絶対に生きて、真理のところへ帰りなさいよ!! そして、私のように悲しみを背負った誰かを、ひとりでも多く救ってよ!! 真理の気持ちですって? 冗談はよして。あなたが真理を愛しているのはわかったわ。でも私は、真理の言うことなんて聞きたくない。私が認めたのは真理じゃない。あなたなんだから。第一、悠長に話を聞いている時間なんてどこにもないのよ。 …………。 私を死なせてくれるということ? ……何が言いたいの? ……私が……決める……。 …………。 私なんかが……どうして……。 これから積み上げていく希望を祝福する壮大な交響曲、その始まりを告げる華やかなファンファーレ……。……そんなふうに言えばいいかしら? あなたに合わせただけよ。京介って、意外とセンスないのね。 何を言ってるのかしらね。全て京介の手柄ってわけじゃないのよ。私はね……真理と友達になりたくて、ここへ来たんだから。 そんな呆けた顔をされても困るわ。あなたが私を呼んだのだから。 まったく、笑っちゃうくらい単純な気持ちを叩きつけてきて……叩きつけられて……。……何も、言えなくなるわ。偽りの愛情を求めるのは嫌だったけど……かけがえのない友情が、またひとつ得られるのなら、少しくらい前向きになってもいいかと思ったのよ。律がそばにいてもいなくても、今までの凪瀬月子はもう永遠に還らないけれど……あなたたちによって変わった自分が、そんなに嫌いじゃなければ……いつか、そのうち……。……笑える。友達に笑いかけられる日がきっと来るわ。その日の訪れを楽しみに待っていたいと思ったの。それだけよ。 ええ。喜んで。私からも、同じことをお願いするわ。 よしてよ。あなたたちが救われたというのなら、それはとても喜ばしいけれど……あなたたちが何もしなかったら、私は今ここにいなかったわ。だいたい、私は人間になるためにここに来たのよ? 神になったら意味がないでしょ? ここにいるのは、凪瀬月子。これからも生きて、一生をかけて罪を償っていく、ちっぽけな人間よ。……それでいいでしょ? 私は社長秘書さんに挨拶をしてから、当初の予定通り、律はこの事件には無関係だと証言しに行くわ。お金も借りなきゃならないしね。 それじゃ意味がないの。私はあなたに、依頼のキャンセル料を払いたいんだから。 そうよ。私の依頼には、事件の犯人を捕まえて欲しいというのがあったでしょう? あなたたちの手をわずらわせて捕まえてもらうよりも……自分で出頭したほうが、いくらか気分がいいわ。 ……呆れた。所長がこんな金銭感覚じゃ、経営を任される人は大変ね。 それじゃあね。 ……また、会いましょう。 申し訳ございません!! 焦るあまり、ついノックをせずにドアを開けてしまって……! このような不始末のみならず、初出勤の日に遅刻してしまうなんて……。 あっ、申し訳ありません。頭を下げたまま喋っていては、誰だかわかりませんよね。 お久しぶりです。……と、言っても、2週間ばかりですけどね。 はい。確かに凪瀬月子ですが、どうかなさいました? そんなに驚くようなことは何も……。 あの……もしかして、旺坂様から、連絡が来ていないのでしょうか? 様子見の意味も含め、初日は17時に出勤するという形で、間違いないかと思うのですが……。 その……もしかすると……私がここで働くという話も、お耳に届いていないでしょうか? ………………。 ………………。……はぁ。呆れた。あの男、何も話さずに自分の一存だけで全て決めてしまったのね。無礼は承知だけど、こんなんじゃ、敬語を続けることさえバカらしくなるわ。 あのねえ……。これでも一応、研究所を出てからは、それなりの社会経験を積んでるのよ。あなたたちは知らなかったようだけど、私はここに働きに来たわけ。いくら友人だからって、職場の上司と先輩に敬語を使わないわけにはいかないでしょう? それはそうよね。何も聞かされてないんだもの。気を利かせたつもりなのかしら? 『嘘は苦手』だなんて、どの口で言ったのよ。まったく……。 非常に込み入った複雑な話になるから、大事なところ以外は省略するけど……要するに、私は取り引きに応じたわけ。IXG日本支社や、警察、あるいは国の偉い人の頼みを聞く代わりに、自由の身になった。もっとも、まだしばらくは監視がつくのだけど。 当然、拒否するつもりだったわ。それで罪が償えるとも思えなかったし。ただ、あんまりしつこく食い下がってくるものだから、次第に拒絶の言葉もなくなってきて……つい、かぐや姫が龍の首の玉を取ってこいと言ったような感覚で、言っちゃったのよ。 我ながら、恐ろしいことを言ったわ。 つまり、こう。『綾名探偵事務所で社員として働かせてくれれば取引に応じる……。 ……ただし、賞与は少なくとも年2回、寮完備、マイカー通勤可であること』……ってね。 京介は、もっと危機感を持った方がいいわね。 バカね。どうしても取引に応じる気のなかった私が、こうして、今ここにいるのよ? 雪弥は言ったわ。『全ての条件は整った。明日から探偵事務所で望み通り働け』と。自分で要求を出した手前、取り引きに応じるしかなくなっちゃったのよ。 雪弥と誰より付き合いが長いくせに。応じるしかないってことなんでしょ? この事務所の新入社員として、ひとつ伝言を頼まれていたのよ。 当たり前でしょ? この事務所での初仕事として、所長さんにお伝えするわ。えー……、こほん。綾名所長、IXGの旺坂様から伝言を預かっております。今、よろしいですか? 『お前の事務所が入ったビルのオーナーになったから、今後ともよろしく』……とのことです。 おおよそ、そんなところでしょうね。 ちなみにこれは伝言ではなく余談なのだけど……このビルの地下1階、テナントが入る様子がないから駐車場にするつもりらしいわよ。 あと、彼、このビルだけじゃなくて、いくつかアパートを買ったみたい。賃貸経営に興味が沸いたとか何とか。私たちが頼めば、破格で提供してくれるらしいわ。 そのようね。ここだけの話だけど……IXG日本支社と天菱から、特別顧問探偵になってくれってオファーが来るみたいよ。きっと雪弥は、こう言いたいんでしょうね。全員が儲かるなら、それこそが、たったひとつの冴えたやり方だろ? ……と。 綾名所長? “不本意”とか、“受け入れるしかない”とか、仰らないでくださいますか? 雇っていただけるなら、綾名所長は上司ですから。うふふ。私だって、何もでたらめにこの事務所を持ち出したわけじゃないんですよ? 綾名所長、ちっともうまくない冗談は、もう少しひかえた方がいいと思います。 …………はぁ。男子3日会わざれば何とやらって言うけど、2週間経っても京介が野暮なのは相変わらずね。 私の気持ちとしては、上司にはきちんと礼儀正しく話したいんだけど……そのせいで惚れた男が動揺するとなれば、考えものよ。 …………はぁ。胸を高鳴らせて来てみればこれよ。だめな男とは、隣人になれなくても、なぜか恋愛対象にはなったりするのよね。 ねえ真理、京介って前の事件の時は、もうちょっと色男じゃなかった? 頭が痛いわ……。……とは言え、そんな表層的なことで揺らぐような気持でもないけど。ねえ、京介。 バカね。そんなこと、どうでもいいの。京介、好きよ。大好き。もちろん、異性として、ね。 ……まあ、こういう反応だろうとは予想できてたけど。 事件の時は、恋心ではないと思っていたから。律に見放された私が、新たな生きるよりどころとして、すがろうとしているだけだと……でも、離れてみて、ひとりになって、この気持ちは本物の恋だと気づいた。よくあるパターンよ。ごめんなさいね。ムードも何もない状況で、いきなりこんな話をして。 今さらだけど、真理は焦ったり怒ったりしないの? ふふ……でも、心配は要らないわ。私はね、真理のことも好きなの。だから、不安に思うことはない。 違うわ。そうじゃないのよ。私はね……真理を愛している京介と、京介を愛している真理が……。……大好きなのよ。 だから、この後で京介が選べる選択肢は、はっきり言ってふたつしかないわ。 そう。ずばり言ってしまうと、『真理だけを愛する』か、『ふたりとも愛する』のどちらか。 あら、愛の形は様々だし、そういう気持ちのあり方があってもいいと思わない? 浮気は嫌よね? でもそれは、裏切られるからよね? 最初からふたりとも愛すると言っていれば、それは裏切りではないわね? 心配しないで。もしその時に、京介が他の女に手を出したら、私が容赦なく――。 世界のどこを探しても、私たちの愛する京介はひとりしかいない。それなら、ふたりのものにしてしまえばいいんじゃない? ねえ、“たったひとつの”とは言わないけれど……これって……世界で2番目くらいには、冴えたやり方なんじゃないかしら。 でも、あなたは“最悪”の方を選ぶことができる。大切なのは、あなたの気持ちが何を求めるのか……それだけ。 それは、アメリカ育ちだからかもしれないわね。 いいわ。仕事が暇な時に見てあげる。 いい提案だけれど、それは、京介がどちらを選ぶか聞いてからにしましょ? もちろん。 当代随一の名探偵さんに、そんなものは要らないでしょ? すぐに答えが出るわ。 ええ、いいわ。 もとより、そのつもりよ。 もともと、どこか他に仕事のアテがあるわけでもないけど? あら……。たまには気の利いたことも言うのね。 ひとつ聞かせて。私は、この事務所に永久就職するの? それとも、あなたに? ……ほんとバカね。“条件”というよりは“特典”だわ。えー……、こほん。不肖の身ながら、永久就職させていただきます。もちろん、綾名所長に。 ……いいわ。許してあげるから、早く出て行って。 もう今さらでしょ? 憎しみなんてどこかへ消えたわ。 許すから少し気を利かせなさいと言ってるのよ!! ……本当に、無粋だわ。もうとっくに、この倉庫は包囲されているんでしょうね。 あなたが、わざわざ地獄へ? なぜそんなことをするの? ……真理はどうするの? 天国でひとりぼっちなわけ? よくもそんな話をぺらぺらと……地獄に行くかどうか、ただの人間に決められるわけもないのに……。 気持ちなんて、いくらあったって無力よ。 ……気持ちに力なんてないわ。もし力があったら、私はこんなところには……。 ……夢のある話ね。いい加減にしなさいよ……! ……あははっ! いいわ!! あなたがどれだけ無力なのか、思い知らせてあげる!! 私たちが超能力を使う時、エーテルは体外に放出される。そのエーテルを消費することで、外部に対して超能力で働きかけられる。だから、超能力を使うのを途中でやめてやればいい。体外に放出されながらも行き場を失ったエーテルは、結晶体を刺激する。刺激された結晶体は、爆発へのカウントダウンを始めるわ…………。……律、もう会えないね。ふふっ……。……いい気味。 こんな状況でまでお説教したいわけ? そうそう…………は?? ……それはもう顔じゃなくてバラバラに散った肉片でしょう。あなた、そんなことを言って、いったい真理はどうするのよ? どうも……って……。 それは大した自信ね。……あながち間違いでもないと思うけど。 ……願望……ね。 ……ふうん。その理屈でいくなら、あなたは律を口説くことになるかもしれないわ。それは勘弁してもらいたいわね。 さて、ムダ話はここまでにしましょ。早くここから出ないといけないわ。 安心して。ここから出たら全てに答えてあげるわ。あなたの願望に対する、“YES”か“NO”の返事……。……それも、ね。 男を焦らして待たせる趣味はないの。どうぞお楽しみに。 残酷なことを言うのね。存在意義を失ってしまった人の前で、そんな話をするなんて……。 どうぞ、ご勝手に。仕事熱心なのはいいことよ。もうとっくに、この倉庫は包囲されているんでしょうね。 …………あなたの言うことは、正しいのかもしれない……けれど、ひとつ言わせて。思い上がるのもいい加減にして!! ……あなた。その名前を一番出しちゃいけないって、わかってて言ってる? もしここから出られたとしても、あなた、この世から消えるかもしれないわよ? ……あなたを利用して、私が律と仲直りするってこと? ……バカバカしいったらないわね。それがラブコメディの映画なら、観客が金を返せと騒ぐわ……ま、考えておくわ。 本当のフェミニストは、そんなことを言わないわ。 あなたは真理の願いを叶えるためにだけ、ここに来たというわけ? ……どういうこと? ……あのね。私に私は見えないわよ。 たった今、まさに口説いてるじゃない。 そうね。確かにここじゃムードがないわ。もうとっくに、この倉庫は包囲されているんでしょうね。 ……いきなり何の話? ……あなた、いったい何を言っているの? メルヤって……確か、エフセイの娘の? ……恥ずかしいまでに卑怯者ね。あなた、そう言って逃げる気でしょ? はいはい。わかったわよ。そもそも私は、そのメルヤって子をよく知らないのはわかるわね? バカバカしいムダ話はここまでにしましょ。さあ、早くここから出るわよ。 …………。 ……大げさね。ちょっとひとりで考えたかっただけ。無粋だわ。本当に気が利かない。もうとっくに、この倉庫は包囲されているんでしょうね。 どうかした? 顔が真っ青よ。人間の肌が表現できる青の限界を超えてるわ。 それが誰であるか、想像がつかなくもないけど、口にするのはやめておくわ。私も、人のことは言えた義理じゃないかもしれないしね。 ……ええ。急いでここから出て……あなたひとりで。 何をされても開けないわ! 静かにして! 私の話を聞いて! ……私は行かない。律のもとにも、真理のところにも、誰のそばにも行かない……行けない。私は、どこにも帰らない……ひとりで消える。 あなたにあげるわ。好きに使って。ねえ、あなたが、右腕を好きに使っていいと言ってくれた時、私は嬉しかったの。自分を犠牲にして、私を助けようとしてくれているあなたを見て……なぜか、自分を犠牲にして律の役に立とうとして、そして失敗した自分が、少し報われるような気がした……おかしい話よね。それは全然関係のない別のことなのに。でも、私にとってはそれで十分なの。もう、悲しくはないわ。 そうもいかないの。今はただ、多くを望んでしまうことが怖い。外に出たら、きっと私は、実験材料の身には不相応なことを望んでしまうわ。私はやっぱり、人間にはなれない……弱いのよ。どんなに人間になったつもりになっても、私はひとりで生きることができない。誰かに依存する限り、私はいつかその人を失って実験材料に戻ってしまう。そうなった時、人としての私が抱えていた望みの全てが、私を苦しめるわ。それらは全て、実験材料の私にとっては望むべくもないことなのだから。いえ、その時の私は、実験材料ですらないかもしれない。抱えた望みの罪深さに怯える、血と肉でできた何かが、そこにいるのかもしれない。そんな“何か”に、どんな望みが叶うというの? 叶ったとして……それは許されることなの? また絶望するのには十分でしょう? 申し訳ないけど、それは遠慮させて。 待って!! 行かないで!! お願いだから、そこにいて……。……お願い……爆発までのわずかな間……私の話を聞いていて。あなたは真理だけじゃなく、他の誰かの生きる支えにもなれると、私はそう言ったわね? その、“他の誰か”というのは、私のことも含まれているのよ。 そう。だって律からは、まだ何も答えを得ていないわ。私の中で、律という支えは失われたまま。それなら、あなたに協力すると申し出た私は、何によって動かされたの? ……あなたなのよ。どんなに短い間であれ、あなたが私のよりどころだったのよ。あなたの覚悟が、何かもを失った私を救った。そしてその救いは、あともう少しだけ生きようと思える、ささやかだけど大事な勇気をくれた……あなたがもたらしたものよ。節操のない話ではあるかもしれない。でも、どうか疑わないで。傷ついてしまうから。 言ったでしょう? 失ってしまうと。 ……違うわ。信じられないのは、私自身。私も律のためと言いながら、6人もの人を殺したのよ。あなたのお父さんも……。 違うわ! そうじゃないの!! こんな私が、ここから出て、これから先も生きていくとして……また誰かを傷つけることはないと、いったい誰が保証できるの? そうね。今なら、その言葉を信じることはできる。 でも、あなたに止めてもらっても、私が誰かを傷つけようとしたという事実は永遠に残るわ。ねえ、例えばね、これは、例えばの話だけど……私は冗談として、あなたの右腕で婚姻届けにサインさせると言ったでしょう? その相手は、あなたと結婚する意思のある人なら、誰でもいいと……例えば、それにあたる人物が真理だけじゃなかったとしたら、あなたはどうする? あなたと結ばれることを望む者が、もし他にいたなら……あなたを生きるよりどころとして、あなたの隣で生きていきたいと、そんな願いを抱く人がいたなら……わかってるわ。その誰かが抱いているのは恋心なんかじゃない。ましてや愛情でもない。自分の生きるよりどころをなくしたくなくてすがっているだけ……もう二度と、失いたくはないから……決して、伴侶としてのあなたを求めているのではない。……わかっている。それでも、それを理解していながら、その誰かは望んでしまうでしょう。自分の生きるよりどころを、誰よりも近くでずっと抱いていたいと。その誰かが望みを叶えるのに、邪魔者が誰なのかははっきりしている。今のままでは叶わない願いもその邪魔者がこの世から消えれば、あるいは……? その誰かはどうするでしょうね。あなたの気持ちに全てを委ねるのか、それとも……気づいた時、その誰かは人ではなく、血と肉でできた何かに変わり果てているかもしれない。 もちろんこれは、ただの例え話。その誰かがどうするかなんてわかりはしない。だから、深刻に考えないで……ねえ、ふたつだけ質問に答えてほしい。 もし、真理が殺されたとして、あなたは真理を殺した犯人を許すことができる? それじゃあ、次の質問……もし、さっきの例え話に出てきた誰かが本当にいるとして、あなたはその人を選ぶことがある? ふふっ。あなたの、そうやって白黒はっきりつけるところ……。……好きよ。 ……そうね。名残惜しいけれど、これ以上ここで話していたらあなたも巻き込まれてしまうわ。 ちゃんと人の話を聞いてた? 例え話だって言ったでしょ? ……こんな時でさえ、気を利かせてくれないのね。恋心ではないとはっきりわかっていたほうが、いくらか気がラクってものよ。でも、そんなところも……。……嫌いじゃないわ。 …………。……さよなら、律。さよなら……。……京介……。人を傷つけ、殺して、不幸を生み出してきた私が……最期に真実を言うなんておこがましいこと……それならせめて、ひとつだけ嘘を吐かせて……律……。そして、京介……私は、ふたりのことが……。…………大嫌い。 悪いけど、時間がないの。手続きは早く済ませてほしいわ。 それで何かを許されようというんじゃないのよ。言うなれば、雪弥から連絡が来たから、ね。取引に応じる気はなかった。私の犯した罪は、それであがなえるほどなまぬるくはないでしょう。時をかけ、誠意を、謝意を、ひたすらに伝えていくことしか、私にはできない。私はまだ、何も許されてはいない。誰かを救うことさえ、おこがましい。それでも、何と罵られてもひとつ、どうしても譲れないものがある。無論、何も起きないならおとなしくしているつもりだったわ。でも、連絡は来てしまった。雪弥に頼んでいたのよ。茜野瞳の身に危険が迫った時、すぐにそれを知らせてくれるようにと。 違うわ。それは雪弥に任せる。いちいち鼻につくけれど、彼ならばきっとやり遂げてくれる……私は、決着をつけに行くの。私自身の、“母親”とね。 もちろん、血は繋がっていないわ。けれど、私にとって、母とはあの人のことなのよ。あの人はそろそろ休んでもいいわ。だから私は、立ち向かう。それは他の誰でもない私がやらなくてはいけないの。いいえ、私しかやってはいけないことなのよ……親を殺すという重罪を背負うのだとしても。いえ……背負うからこそ。 誤解しないでね。あくまで比喩表現。ものの例えよ。誰も死にはしないわ。 伊織……あなたとの決着は、私ひとりの手でつける。あなたの子供は、世界でただひとり……。……私だけ。私には他に誰もいない。けれど律には、本当の両親がいたのだから。あなたのために、律の手は汚させない。……絶対に。 久しぶりね。伊織。会えて吐き気がするわ。 まさか、泣いて許しをこおうとしているとは思わないでしょ? ……私はね、伊織、あなたを殺しに来たのよ。 私の能力が何であるか、よもや忘れたわけではないわね? 過去を変えて、ここであなたを殺す。もっとも、今ここにいる私は何もしないわ。この近辺には、雪弥に調達してもらった銃が、いくつも隠されている。ここであなたと会う“過去”を作れば、“未来の私”はそれを見逃さない。未来の裏通りから、過去に干渉してあなたへ向けて銃を撃つでしょう。 あなたが助かる道は、ただひとつだけ。警察に行って、罪を告白することよ。そうすれば撃たないであげる。 だったら、いつものように、罪をでっちあげればいいんじゃない? 得意でしょ? 罪状は何でもいい。おとなしくしていて。そして、茜野瞳から手を引いて。あなたはもう、“律のためには動かない”……そうでしょ? 人の話を聞いていたの? ………………。 ……今さら、情ですって? ………………。 …………。……どう……して……。 ……どうして……っ……! ……どうしてあなたは……ずっと……ずっと昔から……! 私にはかなわないものとして……そこにいるの……っ……! 私は守りたいだけよ。美しさなんて……。 ……教えて。もしここに銃があったなら、私にあなたを撃つ覚悟があったなら、あなたはどうしていたの? 私が、さらに罪を重ねるのだとしても……? …………。 ……律……私は、律を守れなかったの……? 私が伊織を止められなければ……あなたが手を汚すことになる……この世にたったひとりだけ残された、あなたの本当の家族のために。覚悟が足りなかったと……そういうことなの……? 伊織と決着をつけるべき者は、私しかいないのに……伊織の言う通りに心を定めていれば、律は救われたの……? 私は……どうすれば……。 ……ねえ、思い出して。私は、何をするために、誰のためにこの国まで来たの? 償いを放棄して、独善的な思いのまま、それでも成したいことは……。……いったい誰のため? その誰かは、私が伊織を殺して喜ぶとでも言うの? 私はもう、取引に応じてこの国まで来てしまった。どうしたって正しくいられないのなら、せめて、その人の気持ちだけは裏切らないようにしましょう。もう二度と……絶対に……! わかっていたことでしょう? 全て、何もかも、明白に。伊織が誰より強いことも、弱い私が、律の役に立とうとすれば、何かを失うしかないことも……でも、それでも……私は、あの日に見つけた希望を捨てられない……なんとか……なんとかやってみせるから……ねえ、でも、それでも伊織に敵わなかったとしたら……律……お願い……許して……。 ……伊織の言う“覚悟”なんて、求めてはいけない。私は、真理たちに救ってもらった“凪瀬月子”として、戦い抜くしかない。間違っていたとするなら、そのこと。御笠伊織の娘としての月子は、何も持っていないのよ。未熟なままでもいい……! それでも、私には友がいる。真理の友である凪瀬月子には、きっと何かが変えられる。真理たちと出会う前の自分には戻らない。私は、二度と諦めたりはしない! ええ。そうよ。茜野瞳さん。はじめまして。 ええ。こちらこそ、よろしくお願いするわ。 そうね。もちろんそれは、雪弥が忙しくしていたからだけど、私には私で、下心があったの。 そういうことになるわね。まあ、あまり気にしないでちょうだい。 ずいぶんまっすぐに、ものを言うのね。 ……私、こういうタイプに弱いのかもしれないわね。 何でもないわ。こっちの話。あなたがそうやって気持ちをぶつけてくれるというなら、私も応えたいと思う。だから、ありのままを話すわ。 いいの。私がそうしたいだけ。私、実はね、あなたを嫌っていたの。 正確に言えば、嫉妬していた。私の愛する人が、誰より大切に思うのがあなただった。 違うわ。私は、その千園さんを知らない。 それを聞いたら、本人は傷ついてしまうでしょうから、あまり言わないであげて。確かにいるのよ。あなたを一番に思う人が。 嫌っていた理由は、それだけでもないわね。 必死の悪あがきを、ものの見事に邪魔してくれて……みじめったらなかったわ。 心配要らないわ。あなたは正しいことをしただけ。間違っていたのは私の方。覚えてない? ZENA本部ビルで、暴走する殺人犯の手から、京介たちを救った一件……顔は合わせていないけど、あなたは透視で私のことを見ているはず。 そう。偽りはしないわ。私は、今までに6人もの人を殺した犯罪者よ。もし、護衛としてふさわしくないと思ったら、遠慮なく言ってほしい。不安に思うことはない。その時は、雪弥がそろえたプロが、あなたを守ってくれることになっている。 ……そうよね。その通りだわ。 ……ほんと、どうして私は、こうも恵まれているのかしらね……いいわ。全力であなたを守る。だから……私のことを、一生、絶対に許さないでいて。 それじゃあ、話を戻しましょう。私は、あなたのことをきちんと知りたかった。私には、どうしても決着をつけたい相手がいる。けれど、その相手は強すぎる。今のままの私で挑んでも、きっと勝ち目はない。そんな時、大事な友人のことを思い出した。とても、とても強い人。その人が強いのは、人の気持ちを何よりも大事にするから。誰の気持ちをも背負うから。見習ってみようと思った。その人に変えてもらった自分として戦いたかった。そう思ったら、あなたがどんな人なのか、何を思っているのか、それが知りたくなった。あなたの気持ちと願いが知りたい。私はそれを背負いたい。……力をちょうだい……笑ってしまうわ。ずいぶんと利己的な考えだと。 …………。……は? いったい何をどう解釈したら、そういう結論に辿り着くの? …………。……否定はしない。 …………今、自分の中で、何かが崩れていく音を聞いたわ……好きにしてちょうだい。敬語も必要ないわ。 ほんと、調子が狂うわ……あなたたち姉妹には、一生かなわないのかもね。 言うべきではないのかもしれない。けれど私は、真実を話すこと以外に、あなたに誠意を示す方法がわからない。 傷つけてしまったら、ごめんなさい。どうか、落ち着いて聞いて。 私が愛する人、神志律は……あなたが追うゴーストは……あなたと血を分けた家族……あなたが探し求めている人……。……あなたの、“姉”なのよ。 ………………。 えっ……? ……あ、ああ、ごめんなさい。ちょっとその呼ばれ方に慣れないものだから。そのうち慣れるわ。気にしないで。それで、どうかしたの? ああ、京介と真理ね。確かに来ているみたい。 京介は、いざという時のこちらの切り札として呼ばれているの。相手に存在を知られてはいけない。だから、気軽に会いにいくわけにもいかないのよ。会いたくないわけではないわ。それに、京介と私は、同じ超能力を持っている。同じところにいても、それでは効率が悪い。離れていたほうがいいわ。 ああ、大丈夫。支社の精鋭もいるし、たとえ私ひとりでも、あなたのことは絶対に守るから。 なるほど……ね。自分が大変な時でも……人の心配ばかり……やっぱり、姉妹なのね。ずっと離れていても、どこか似てしまうのでしょう。 ……ええ。昔、私と律は、とてもつらい……地獄にさえ思える日々を送った。自分のことで精一杯のはずなのに、律は私の面倒ばかり見て……ごめんなさい。今こんなことを話しても、混乱させるだけよね……でもやっぱり、律のことを少しでも知って欲しいと……そう思ってしまうのよ。 雪弥がそう言っていたのだから、それは間違いないでしょう。あなたは、あなたの言うゴーストと会い、話をするために来た。だからそれを果たせばいい。紛争再燃をもくろんでいるという話は、雪弥が対応する。 そんなことはないわ。あなたと話をすれば、律の何かが変わるかもしれない。そういう可能性を秘めている。それぞれにできることをきちんとやりましょう。 ……それは……律に消されてしまうかもしれないわね……。 何か、様子がおかしいわね……。今はまだ、ミーティングをしている予定のはずなのに……。 律……そんなこと、私には、ひと言も言ってくれなかったわね。どうやら、最悪のタイミングで、ここまで来てしまったみたい。 ……ごめんなさい。言ったわ。 待って! 律、あなた、何をしようとしているの!? 妨害装置が働いているのよ!? そんなことをすれば……!! …………っ! それは……。 真理、追うわよ!! 確かにどこかはわからない。けれど絶対に、この歌劇場の近くにいる。遠く離れた場所までは行ってないわ……行けないのよ。その理由は……まだ言えないけど……でも、お願い。追いかけたいの。体力勝負になるから、真理の助けが必要になる。一緒に来て! 京介、雪弥! 悪いけれど、瞳のことをお願い! 見つけたわよ。……律。 真理もあなたを追っているけれど、手分けして探していたから、ここにはいないわ。 ……やはり、伊織はあなたを切り捨てたのね? ……言えないわ。決着をつけるのは、私なのだから。 ねえ……もういいでしょう? そうやって言葉をつくろって、弱い自分をごまかす必要はない。ここには私しかいないわ。 それに、あなたはさっき私に言ったはずね。情が残っているなら言わないでくれ、と。そして私は、あなたの望み通り、何も言わなかった。だから私も同じことを言うわ。もし私に対して情が残っているのなら、自分を偽らず、隠さず、本心でぶつかってきてほしい。 どうか応えて。お願いだから……! ……律? え……? 律……! あの時のことは、悪かったと思ってるわ。 それは……私が律を苦しめているなら……。 ……変わらないわね。こうして立場を違えてさえ、私に行く道を示そうとする。 はっきり言ってしまえば、私にあなたを止める気はないのよ。京介たちは、律が紛争をあおるのではないかと気にしていたけど……私としては、あなたがそんな手段を選ぶとは思えなかった。まず、私がこのラトゥーアに来たのは、個人的な決着をつけるため。そして、あなたを追ったのは、瞳と友人になったから、それだけよ。 瞳は、ゴーストと……あなたと話をしたがっているわ。会って、きちんと話をしてあげて欲しいの。 結局、まだ誰も気づいてないのね。あなたがやろうとしていること……それが全て、たったひとりの家族、妹のためだとは…… 言ってないわ。できることなら、あなたから話してほしい……そう思っていた。 ………… ……それは……その真実は……。……重荷になるでしょうね。けれど、それが何だというの? 瞳は、あなたの妹は、そんなことで潰れてしまうほど弱くはない。そうでしょう? 律っ! 人間……? ……待って! 律っ!! ……バカ。瞬間移動なんて使わなくても、行きたいならそう言えば……ここには妨害装置がないからって、体に負担がないわけじゃないでしょう? 律、私も言うわ。私は決して諦めない……。……ううん……違うわね。諦めたくない。きっといつか、あなたと心から笑い合える日が来ると、信じていたいのよ……だって……私たち、苦しんで、戦ってばかりで……そんなひととき、一瞬たりともなかったでしょう……? あなたは正しいわ。私は許されるべきではない。 そんな時間軸が、あればよかったのだけれど……。 きっと、後で説明することになるわ。今は聞き流してちょうだい。 ……ほんと、どうして私は、こうも恵まれているのかしらね……いいわ。全力であなたを守る。だから……私のことを一生、絶対に許さないでいて。 ……それは……その真実は……。それは、瞳が決めることよ。良いものだけを与えようだなんて、余計なお節介というもの。あなたが真剣に、瞳に向き合えればそれでいい。それにどんな意味を見出すかは、瞳だけが自由にできることでしょう? 瞳は、私たちの傷痕さえ勇気に変えてくれる。私はそう信じているしね。 あなたは不器用なのではない。……正しいのよ。そして、間違っているのは私。 ……力? えっ……? ……まいったわ。白旗よ。私の負け。誰にどう言われようとも、私はあなたを守りたい。それに対する、あなたの気持ちは? ……ほんと、どうして私は、こうも恵まれているのかしらね……いいわ。全力であなたを守る。だから……私のことを一生、絶対に許さないでいて。 ……それは……その真実は……。……未来につながるわ。 私は、あなたと瞳を信じている。きっと、過ちも悲しみも分かち合えると、そう思う。そしてそれは、目指すべき未来をたぐり寄せてくれるわ。まあ、こう言ってはなんだけど、律も瞳も、まだ半人前なのよ。間違ってばかり。 ひとりのままでは完全でいられないのなら、手をつなぐしかないわ。そして、手を繋ぐなら、律の場合、その相手は瞳がもっともふさわしい。でしょう? 律なんて、こちらから願い下げだわ。まっぴらごめんよ。私も年頃だから、優しい男性に手を引かれてエスコートされたいの。何かおかしい? 半人前の律に男は早いわ。まずは妹と手をつないでおきなさいよ。 律っ! バカ言わないでちょうだい。私はあなたの護衛なのよ。役目を果たさなかったら、むしろ彼らに怒られてしまうわよ。 あるいは、そういう見方もできるのかもしれないわね。 どうかした? かまわないわ。私にだって、特別な人はいるもの。 そうね。結局、私は、律のことばかり考えている。律のつらさは、苦しみは、私のものでもあるから。今までずっと、分かち合ってきたのだから……。 知りたいって、いったい何を? ええ。初耳だったわ。亡くなったとは聞いていたけど、殺されただなんて、ひと言も……。 迷惑だなんて、見くびらないでほしいわ。ただの護衛のつもりだったけど、勝手に役職を足させてもらう。 “通訳”よ。私、かつてアメリカに住んでいて、英語はよくできるのよ。街に出るというのなら、必要でしょ? それじゃあ、行きましょう。 なかなか立派な街並みよね。 瞳? どうかしたの? ……太るわよ。 ホテルの朝食バイキング、お腹いっぱい食べたって言ってたじゃない。 さあ、先を急ぎましょう。動き回れば、逆にカロリーを消費できるわ。 …………。……美容の話をしたつもりなのだけど……『花より団子』って、こういうことかしらね……。 律と私は、あなたのことをもっと信頼すべきだったのかもしれないわ。どんな形であれ、こうして律のために動いてくれるあなたを思い描けなかった。あなたを信じられなくて……。……ごめんなさい。 はぁ……。せっかくなんだから、もっと贅沢を言いなさいよ。安い女と見られるわよ? それなりに人通りはあるけれど……さすがに、律がここを通りかかるとは思えないわね。 格調高い造りをしているのね。こういうの、嫌いじゃないわ。 居心地がいいわね。家の近くにあれば通いたいくらい。……瞳? どうしたの? 大げさね。ただ本を借りてみようというだけよ。 そう。借りるけど、いったいどうしたっていうの? そうね……太宰や漱石なんかは、ちょっと難しいかもしれないけれど……慣れてくると面白いわよ。 レヴィ……? 何? 海外文学か何か……? カウンターで端末を借りてくるわね。 端末をふたつ借りてきたわ。 どうかした? え、ええ……。そうみたいね……。 えっ、えっと、その……。 ……そうよ。つい、かわいいものを選んでしまうのよ。悪い? あまりそういうものに縁がなかったから、憧れがあるのかもしれないわ。 えっと……実は、正確にはわからないのだけど……4月17日となってるわ。 律をさしおいて……こんなことを続けていたら、何よりも大事な絆にヒビが入りそうな……。 いいえ。こっちの話。さあ、端末は借りたのだから、何か読んでみましょう。 何か借りて調べてみましょう。 『ミミミの一問一答2』ね。端末にデータを入れてきたわ。読んでみましょう。 これは……何と言うか……。 『フルムーン・オブ・ラヴ』? それって、恋愛小説でしょう? どうしてそんな本を? ……ちょっと待って。どうやら、これらの小説の著者は、このラトゥーア在住みたいね。地元の作家として人気みたい。 著者の名前は、ユディタ・チェルナー……女性みたいね。 そうね……何も期待はできないと思うけど、軽く目を通してみましょうか。 …………。 わかってはいたけれど……。 この本のデータ、消してくるわ。 『共鳴する超能力』? そういうカンって、意外とあなどれないのよね。いいわ。借りてみましょう。 なかなか興味深い話ね。 『熟練度が上がるほどに暴走のリスクは減る』とも書いてあるわね。 けれど、律は違う。彼女は、生まれてすぐに能力に目覚めた。あなたの発現器官に影響されて、力が暴走してもおかしくない。まだ推測に過ぎないけれど、かなり真実味のある話ね。 ……わからないわ。多重能力者の姉妹となれば、誰にどう狙われるか……。 まだ推測に過ぎないけれど、かなり真実味のある話ね。 どうかしたの? そういうものに興味があるの? …………。……遠慮しておくわ。 ご想像にお任せする、と、言いたいところだけど……この庭園、高さ600メートルもあるのよ? どうしてこんなに高くしたの? こんなところで景色なんて見たら、ナポレオンだって震え上がるわ。まっぴらごめんよ。 馬鹿と煙は高いところへ上る。私はどっちにもなりたくないわ。 雪弥の調べによると、Lタワー内のホテルに、律と伊織が泊まっていたらしいけど……もうふたりとも引き払ってしまったそうよ。律も伊織も手落ちのないタイプだから、何か有用な痕跡は残ってないでしょうね。 何の生産性もないじゃない。ほんと、馬鹿げてるわ。 何? 景色なら悪いけどひとりで見てくれる? ……は? ここで、瞳と雪弥が襲われたのね。 彼は仕事が生きがいなんだから、何であれ働かせておけばいいのよ。 苦労するのよね。胸が大きいと、こういったデザインはなかなか見つからなくて……。……なんて、言うと思ったの? 瞳? あなたが今、透視で何を見ているか、詳しく教えてもらえる? ……いい? あなたが今ここで見た物は、完全に記憶から消し去るのよ? 万一にも、誰かに言うようなことがあれば……今後、あなたの学力テストは全て、過去干渉で邪魔されると思いなさい。 どうやら、まだ記憶が残っているみたいね……? あら……さっそく、さっきの仕返しをさせてくれるの? そうね。念のため、確かめておきましょう。ここまで来たのだし、過去視で、瞳たちが待ち伏せされた時のことをきちんと見ておくわ。 …………。……私とは大違いね。 おそらく、本当に撃つ気はなかったのでしょう。けれど、覚悟がある。相手を傷つけ、そして、自分が傷つくこと。それを受け止める覚悟が……。……どうせ見習うなら、京介のやり方がよかったけど、残念ながら、私には向いていないみたい。 こんなところまで来て、いったいどうする気なの? 誰にも聞かれずに……? 何の話をしているの? …………。 そういうわけじゃ……。 ほんと、びっくりするほど成長していくのね……いいわ。話すから、落ち着いて聞いて。ラトゥーア研究所で行われていたのは、超能力者を被験者とした……人体実験よ。 律は、自分を苦しめた人間たち……非能力者を深く恨んでいるわ。でも、最近になって、こう思うようになったの。律の行動の動機は、人体実験のことだけじゃないんじゃないかって……。 そうなるわね。でも、確かなことはわからない。根拠はどこにもない……けれど、悪い予感が消えてくれないのよ……。 律は、自分を苦しめた人間たち……非能力者を深く恨んでいるわ。でも、律の行動の動機は、人体実験のことだけじゃないかもしれない……確かなことはわからない。けれど、悪い予感が消えてくれないのよ……。 どうせ見習うなら、京介のやり方がよかったけど、私には向いていないみたいね。 それはどこなのか、言ってみてちょうだい。 あなたらしいと言えばいいのか……。 いいでしょう。行ってみましょう。 研究所に何も思わないわけではないわ。けど……あなたが律を理解してくれるのなら、それは私にも望ましいことなのよ……さて、研究所から出たのは私が12歳の時……正確な場所はきちんと把握してないの。 研究所の存在は公には隠されていた。それ自体は地図には載っていない。 そんなに心配することはないわよ。研究所は捕虜収容施設に隣接していた。その場所は調べればすぐにわかる。市街地に行って、近辺のマップを買っていきましょう。研究所は何もないところにあるから、スマホの電波が途絶えるかもしれない。紙のマップがあったほうがいいわ。 どうかしたの? ああ、何、そんなこと? それなら心配は要らないわ。私、雪弥からクレジットカードを持たされているのよ。 私の名義の、IXG日本支社の法人クレジットカード。用意してたらしいわ。つまり、私が買い物をした分は、IXG日本支社の口座から支払われるというわけ。 素直に頼っておきなさい。瞳に自分のお金を遣わせたら、雪弥の立場がなくなってしまうわ。 ほんと、バカよね……取引で一時釈放されただけの、犯罪者の私に、こんな物を持たせるなんて……。 そうよね。ビジネスの観点から見れば、誰よりも信用できるわ。京介のほうが、変なところでいい加減よね。いくら間違いがないからって、バイトに経理の一切を任せるもの? そう。お金の計算は、真理が全部やってるの。京介って金銭感覚ないから、ひとりだったら、とっくにあの事務所は潰れてるわ。 かもしれないわね。さて、雪弥がちゃんと責任を果たせるように、カードは使わせてもらいましょう。 それじゃあ、地図を買うわね。 瞳の気遣いに配慮して、なるべく安い地図を買ってきたわ。まあ、困りはしないでしょう。 思っていたより遠くはないわね。道も通じているようだから、タクシーで行けるわ。 私、研究所を出てからは裕福に暮らしていたから、贅沢に慣れているのよね。 もう地図は買ったわ。タクシーで移動しましょう。 図書館で見た作家の本が、いくつも平積みにされてるわね。例の、ユディタ・チェルナー。 『恋のキャンセルはお断り』『あなたのプロポーズは完全犯罪』『キューピッドの心を射とめたい』『波の音は愛のささやき』『人魚になるからキスをして』。タイトルを訳してはみたけど……。 そういう年頃なのよ。きっと。先を急ぎましょう。 外から眺めるだけのつもりだったのに……ここまで入れたというのは、ちょっと驚くわね。 当時の水力発電がまだ無事に動いている、ということなのでしょうけど……律も、このあたりと、地上へのエレベータは壊さなかたし…… 見ての通り、無事に残ってるわ。唯一、このあたりだけは、ね。ここは、律が研究所を破壊した時、私がいた場所だから。 そうね。私が外に出るためには、動く状態のエレベータを残しておく必要もあった。他の被験者は全員逃げ出したけど、私は最後まで律と一緒にいたの。だからここは、律が、自身の体に高濃度エーテルを打った場所でもある……。 かまわないわ。いつかは向き合わなければならないことよ。誰もいないみたいね。少し、このあたりを見てみましょうか。 あくまで隠された施設だから、そこまで大きいわけではなかったけど……そうね……日本の中学校の校舎より少し小さいくらいかしらね。 普通はできない。瞬間移動を応用して物体を破壊するには、膨大なエーテルが要る。けれど、律は高濃度エーテルを自分に投与した。無尽蔵にさえ思えるエーテルを体内に取り入れたことで、研究所の破壊は可能になった。使い切ろうとするほうが難しい……今も、律の体内には、すさまじい量のエーテルがあるのよ。 無尽蔵にさえ思えるエーテルを体内に取り入れたことで、研究所の破壊は可能になった。使い切ろうとするほうが難しい……今も、律の体内には、すさまじい量のエーテルがあるのよ。 ええ。私と律だけでは、どうやっても脱出できなかったと思うわ。詳細はいまだに不明なのだけど、どうやら、研究員の中に、脱出を手引きしてくれた人がいたみたい。 その人、顔は隠していたらしいわ。きっと、ZENAに裏切り者だと思われたくなかったのね。誰であるか知れれば、どんな報復をされても、不思議じゃないもの……あの頃のZENAはそういう暗部を抱えていた。 律による研究所の破壊は、手引きをした誰かが外にいる時に行われた。巻き添えになった、というようなことはないはずよ。 研究員の中に、脱出を手引きしてくれた人がいたみたい。律による研究所の破壊は、手引きをした誰かが外にいる時に行われた。巻き添えになった、というようなことはないはずよ。 岩が崩れてきて割れてしまったみたいね……ちょっと待って……! このディスク……“リツ コンフィデンシャル”と書かれている…… 十中八九、ここにある“リツ”は、私たちの知る律でしょうね。“神志律に関する機密情報”……そういうことになる。何か新しい発見があるかもしれない。どうしても中身を見たいわね。 残念ながら、私にそれはできないわ。過去干渉は、本来、5日前までのことしか変えられない。ディスクの状態を見る限り、壊れたのはもっと前のことでしょう。そこまではさかのぼれない。 諦めるには早いわ。私は、“本来”と言ったでしょう? 方法はある。聞いてちょうだい。今朝の情報共有で、京介の義肢が強化されたという話があったでしょう? 京介は今、エーテルさえ足りていれば、どれほどの過去だろうとさかのぼって干渉できる。もっとも、そのチャンスは2回だけなのだけれど……。 無駄遣いできるものではないけど、これだけあからさまに怪しいとなると……まず、それ以前にエーテルの問題があるわ。最悪、8年の時をさかのぼることになる。それをするには、京介自身のエーテルではとても足りないはずよ。まず、実現可能か確かめましょう。それだけ大量のエーテルを確保する方法があるか調べるの。 街にはZANA支部があったわね。何か聞けるかもしれない。 ………………。…………。 ねえ、瞳……出て行く前に、今この場所で聞いて欲しいことがあるの。 ……ありがとう。話と言うのは、律のこと。彼女への情のせいで、真理たちには言えなかったこと。 今となっては……。……あなたなら、ね。だから、ここで聞いたことは、胸のうちにとどめておいて欲しい。 これは、雪弥もある程度は察しているみたいだけど……まず最初に問題になるのは、律の“余命”について。 結論から言ってしまうわ。律は、“あと1年以内に死ぬ”と、そう言われている。これは、アメリカで最新の治療を受けたうえでの診断よ。間違いはないでしょうね。 さっき言った、高濃度エーテルを自分に打ったこと、それが問題なのよ。律はずっと、人体が抱えていられる許容量を超えたエーテルをその身に宿し続けてきた。それが、体中を蝕んでいる。ああ見えて、ボロボロなのよ。内臓も、血管も、筋肉も……何もかも、ね。もう、ただ走ることさえできないわ。 あなたがいるから、よ。 律はあなたにこだわり続けてきた。この世にただひとり残された“家族”として。そして律は、自分が興した国を、あなたが受け継ぐことを望んでいた。自分の戦いを、そこで得たものを、あなたに遺そうとしているのよ。 客船で言われなかった? “チュートリアル”だと。 そう。あなたを客船に閉じ込め、奇跡の脱出劇を演出した最大の目的は、“瞳を成長させること”だった。国を継ぐのに、ふさわしい人となってもらうために。 受け止めてほしい。 “受け止める”……それが、話を聞く前に、あたしが約束したこと……不器用よね。それしか、愛し方がわからない。そして、妹への愛の求め方も、そんな形のものしか思いつけない。 だってそうでしょう? あなたとは客船で会っている。国を託しても、あなたが喜ばないことは重々承知のはず。もうすぐ死んでしまう律は、あなたを選び、“頼った”のよ。自分の夢を、引き継いで欲しかった。あなたが律を姉として愛すればこそ重荷を背負ってくれることを、願った……京介が、亡き父の探偵事務所を継いだように……あるいは、そう言えるのかもね。 単純に比べられはしない。けれど、律の中では、瞳が国を受け継ぐことが、このうえない愛の証明なのよ。律本人は、どこまで自分の気持ちに気づいているのかしら。本当に……不器用な人だから……。 無理をすることはないわ。あなたの気持ちはあなたのもの。湿っぽい話をしてしまったわね。自分で話しておいて何だけれど、元気を出してちょうだい。街に戻りましょう。私たちにはまだまだすべきことがあるわ。 すんなり入れてしまったわね。当然、この支部の中には、重要機密もあるでしょうに。 言ってしまえば、本部の人は強い権限を持っているわけね。 今は、利用できるものは利用しましょう。立ち止まっている暇はないわ。 ええ。きっと、うまくいくわ。 カプセル? じゃあ、今の京介なら、過去干渉でディスクを守れるというわけね。 京介に借りばかり作ってしまうのはシャクだけれど……。……協力を頼みましょう。何か、重大なことがひとつ、隠されている気がするの。眠り続けてきた真実……触れたら崩れてしまうような、もろく痛ましい何か……その答えは、ディスクの中にあるのかもしれない……。 どうだった? 京介だって背負うものがある。無理は言えないわね。それじゃあ、Lタワーのレストランで食事でもしていましょう。 ZENAに所属している人がいると、何かと便利でいいわね。中に入れて、頼みごとができて……まあ、さすがに、私もZENAに入るという気にはなれないけれど。 ゼロ次元……? いったい何? サイコメトリーの能力を応用し、記憶障害の治療に貢献……そういう見出しがついてるわね。 ……そう……。そうだったのね……。 いいのよ。女は待たせるのが甲斐性なのだから。 ……やっぱり私、律に消されるんじゃないかしら……。 ううん。こっちの話。さぁ、案内するから、さっそく行きましょ。 何言ってるの。分乗よ。2台に分けて乗るの。 十中八九、私が、ディスクを見つけると思うわ。京介がここで能力を使えば時の傷跡ができる。これだけのエーテルを使う干渉なら、傷跡は消えず、強く残るはず。見落としはしないでしょう。ディスクを見つけて、持ち帰り、パスワードがあればそれを解き明かして……今頃、ディスクの中身を見ていることになるんじゃない? 研究所で、このディスクに対して使ったんじゃないかしら。時の傷跡があったから、ディスクを見つけられたんだし。 ねえ、雪弥……律は……律は、両親がそうして殺された事実を知っていたの……? 律……どうして、どうして言ってくれなかったの……? そんな状態なのに……私に言葉を教えたりして……優しいのにも限度があるでしょう? ……律……。 どうして、ここに来ようと思ったの? 願いは叶えてあげたいけれど……それは無理な話ね。私はあなたの護衛だもの。ひとりにするわけにはいかないわ。 ええ。私は、京介の過去干渉を知覚できるから。思っていた通り、京介の過去干渉によって、あのディスクを守ったのよ。 もちろん、わかるけれど……気になるの? ……あなたたち姉妹に、何かを与えられる日が来るなんてね。いいわ。それで瞳の気が休まるというなら、朝まででも付き合いましょう。 ……と、話をする前に、ちょっと失礼していい? お手洗いよ。こればかりはどうにもならないわ。 何が起きるかわからないんだから、ちゃんと警戒するのよ。 瞳! 物音がしたけど、何かあったの!? ……瞳? どこ! どこにいるの!! もう……心配させないでほしいわ。ケガはしてない? その様子を見ると、だいぶ落ち着いたみたいだけど、何かふっきれたの? そう……。それならそれでいいけれど……。 物好きね……。いいわ。聞きたいだけ聞けばいい。それじゃあ、何から話しましょうか……。 期待してるわ。 でも、普通の方法では見られないんでしょう? どうやって飛ぶように売るの? つまり、その本を開けば、誰でも内部文書を読めるようにするのね。 万策尽きた……そんなところかしらね。防ぎようがない。 私がいたところで、何が変わるとも思えないけど。 …………。 あの女と話すなら、いずれわかるわ。 儲け話でしょ。伊織の権威が失墜することで、どの株が上がってどの株が下がるかという……。 ……伊織がこの国に? 確かに、あの女、人前で胸をさらさなかった……。撃たれた傷跡があるから……? つまり、それは、8年前ということになるわね……。 ちょっといい? ひとつ、お願いがあるの。もし、伊織との交渉が決裂したなら……あの女にトドメを刺す役は、私にやらせてちょうだい。 ……感謝するわ。わがままを聞いてくれて。 この国で撃たれたという話は本当だったのね。 …………。 いいえ。私と伊織は、正式に養子縁組もなされている。正真正銘の親子よ。そして、律も同様に、伊織の娘なのよ。私たちは、戸籍上、御笠律と御笠月子……そういうこと。 茶化さないでちょうだい! 私たちはあなたと交渉をしに来たのよ? あなたを潰しうる材料を持って……。 …………! ……あなたはいつもそうね。いつだって強者でいる。 議員の地位をこれから失うのだとしても、そうやって冷静でいられる? あなたが交渉に応じないのなら、それは現実のものになるわ。 こけおどしじゃないのよ。実際にあなたを失脚させることが…… …………!! ……知っていたの? ……っ! あなた、ついに虚言を吐くようになったの? 仮に瞳が最強の能力者だとして、何をどうしたらあなたに従うのよ。あなたの言い分は、破綻してるわ。 そんなの……はったりよ……! ……瞳? ……瞳!! 瞳……。 …………。 ………… きっと何かあるのよ。そうでなければ……。 “ラボラトリー”の略でしょうね。つまり、日本語で言うと……研究所。 おそらく、違うと思うわ。急いで書いたようだから、はっきりとは読み取れないけど……この筆跡は見覚えがあるわ。律が書いたメモなんじゃないかしら? だから走り書きで、必要最低限のことしか書いてない……? 真理……瞳のこと、お願いするわ。 ……え? いったい何の話? ミミミ……? 好きも何もないわ。ちょうど今、このウサギが“ミミミ”って名だと初めて知ったくらいよ。 それは、その……。……ちょうど、もうひとつのモデルが全て貸し出されていて、これしか選べなかったのよ。 そうよ。そういうことなの。 研究所で過ごした日々は、どうしたって記憶から消せない。律も、私も……私には、救いの手が差し伸べられたけど……律は、自分を苦しめた人間たち……非能力者を深く恨んでいるわ。でも、最近になって、こう思うようになったの。律の行動の動機は、人体実験のことだけじゃないんじゃないかって……。 ……友達? 私が……? ええ。もちろん。 ……じゃあ、“友達として”謝らなきゃいけないかしらね。 とっくに自分のために使ってしまったもの。Lタワーのエステ、良かったわよ。 私の友達の雪弥は、そんなことで怒りはしないわ。さあ、本屋に行きましょ。 ……正論ね。そう言われてしまっては、手も足も出ないわ。 雪弥にお任せするわ。京介は間違ったことを言っていないもの。 それだけは絶対にないわ。 研究所で過ごした日々は、もちろん忘れてはいないでしょう。律は、自分を苦しめた人間たち……非能力者を深く恨んでいるわ。でも、最近になって、こう思うようになったの。律の行動の動機は、人体実験のことだけじゃないんじゃないかって……。 そういえば、今のうちに行きたかったところがあるのよね。 雪弥からクレジットカードを預かっているうちに、ということよ。 私は、雪弥を信頼してるわ。ふところが深い人だと。 つまりそれは、見解が一致したということよね。“雪弥は怒らない”と。 贅沢はできるうちにしておいた方がいいわよ? Lタワーに高級スパがあるのよ。そういうの、気にならない? そのくらいかわいいもんでしょ? セスナを買おうと言うんじゃないわ。さっ、行きましょ。もたもたしてたら、のんびりする時間がなくなってしまうわ。 良いお湯ね。ちゃんと温泉なのよ? 源泉から直接引いているらしいわ。 女ふたりで湯船にいて、することと言ったらガールズトークよね? 私、そういう会話にずっと憧れていたの。研究所を出てからだって、そういう機会には恵まれなかったから。だから、今、ガールズトークをしましょう。 でも、初めてだから、何を話せばいいのかわからないのよね。瞳に任せるわ。それらしいことを話してちょうだい。 瞳は、好きな人はいるの? そんなに力いっぱい否定することはないと思うけど。 そうねえ……“私はこの人が好きかもしれない”と感じていた男性の前で死のうとした話ならあるわ。 どうやら、私たちには向いてない話題だったようね。 もう、恋の話はやめましょう。私たちには早いみたい。無理な背伸びはケガのもと。 アメリカにいた頃は、IXG系列のザナドゥ・ジュエルというブランドから“提供”されていたわ。 でも、その服はもらっていただけ。自分で選んで服を買った記憶というのは、ほとんどないのよ。律のもとを離れた後、いくつか下着を買ったくらいね。ちゃんと覚えているのは。瞳は、どこで服を買っているの? 瞳のそういうところ、とても好ましいと思うけど……。 この話題は失敗だったようね。 どうやら、私たちはファッションの話をするのにふさわしくないみたいね。 野球……? そうね。埼玉ラビッツが好きだけれど。 おかしいかしら? テレビでね、日本の野球をよく見ていたのよ。母国ということで、気になったのでしょうね。 当時、夏伊という伝説的な4番バッターがいて、惚れ込んでしまったの。 それがきっかけになって、以降ずっと、ラビッツを応援してるわ。今、夏伊は生まれ故郷のチームである、岡山オーガにいるけれど……。 ……岡山? 瞳の住んでいるところからはずいぶん離れているでしょう? そうだったの。瞳らしい、ほほえましい話ね。 そうなったら、瞳とは敵同士になってしまうわね。オーガが負けそうになっても、念力でボールを動かしたりしてはだめよ? 私たちには、ガールズトークはちょっと早かったのかもしれないわ。 いつまでもこうしていたいけれど、このままいたら、のぼせてしまうわね……ついでに、待ち合わせにも間に合わなくなる。 ふふっ。そうね。瞳もリフレッシュできたみたいだし。 誤解しないでほしいのだけど、ただ贅沢がしたかったわけじゃないわ。研究所から戻ってくる時、ずっと、瞳が難しい顔をしていたから、ここに誘いたくなったの。ほんの少しくらいは、肩の力が抜けたでしょう? さあ、行きましょうか。本当に待ち合わせに遅れてしまう。 …………あの男、婚約者までいるくせに、競争率高すぎなのよ……。 何でもないわ。こっちの話。瞳、京介は結婚を約束した相手がいるのよ? わかってる? ……なるほどね。その気持ち、わからなくもないわ。 ……そうね。いるかもしれない。何と言えばいいのか……どうしたって勝ち目はないし、邪魔する気もないのよ。 ……は? …………そのためだけの冗談で京介を持ち出してくるなんて、度胸は買ってもいいわ。 ちっとも。 …………。………………。 ……瞳、よく聞いて。早く目を覚ましなさい。今ならまだ間に合うのよ。 ……嘘なのね。よかった。私の寿命を縮めるためには、雪弥というのはベストチョイスだったわ。 悪人ではないわ。むしろ、いい男の部類よ。ただ、あれが幸せになると思うと、生理的に嫌悪感がほとばしるのよ。 …………。………………。 怒りと憎しみを通り越して、悟りの境地に至れそうね。 知ってる、とは、いったい何を? 律に……? 私の知る限り、律に恋人がいたことはないわ。今もいないでしょう。誰々が好きという話も聞かなかった。律も私も、戦うことに必死で、そんな余裕はなかったし……。 ……チャンスって……まさか……瞳……あなた……! 愛の形は様々と言っても……ねえ、実の姉というのは……私はどうかと思うわ。さすがに。姉ということを抜きにしても、女同士なわけだし……私も人のことは言えないけれど……ねえ、律というのはやめましょう? せめて私に目を向けて。瞳の恋が律に向かうくらいなら、私……。 今、私……激しく安堵してるわ。瞳に見る目があってよかったって。 瞳……。……本当に? 瞳なら、きっと大丈夫。うまくいく。雪弥の全財産を賭けてもいいわ。 律は、自分を苦しめた人間たち……非能力者を深く恨んでいるわ。でも、最近になって、こう思うようになったの。律の行動の動機は、人体実験のことだけじゃないんじゃないかって……。 ちょっと待って……。おかしいわ……。 律は……ふたりいる? 決戦ですって? ……どういうこと? 雪弥、アンドロイドって……いったいどういうこと? じゃあ、そこで戦っているのは……。 伊織は、何をするつもりなの……? もしかして……伊織に従った瞳は……! 私が……そばにいながら……。 これ……銃? これを私に渡して、どういうつもりなの……? ……ええ。いいわ。行ってちょうだい。 つまらない冗談を言う人は、そんなに嫌いじゃないわ。早く行って。 決まってるでしょう? 律に加勢するわ。 今のあなたに戦闘能力はない。相手にする理由はないわ。 ……えっ? …………!! …………。……伊織……私は……。……あなたを超えてみせる。 動かないで!! 念力が使えるというのなら、撃った銃弾がそらされる恐れがある。それなら、最初の一瞬にかけて、至近距離で銃を撃てるところまでつめるしかないわ。 動かないでと言ったでしょう? アンドロイドさん、あなたが何かしようとすれば、即座に伊織の頭を撃ち抜くわ。 私はもうためらわない……けれど、誤解しないで。撃ちたいわけじゃない。 ……待つためよ。こうしていれば、あなたは何もできない。ガマン比べをしましょう? あなたを足止めしていれば、きっとみんなが状況を変えてくれる。 …………。……わからないの? 私ではきっと、あなたには勝てない。けれど……“仲間を信じられる”ということにおいて、あなたを超えられるのよ……ねえ、伊織、あなたは待てる? 私は待つわ。いつまでだって。 ……違うわ。遅れてきた主役の登場よ。 ねえ、伊織、そろそろ銃口を向けられているのも飽きてきたんじゃない? そう。じゃあ、あなたから楽しみを奪うことになるのね。 少しの間、アンドロイドをおとなしくさせていて。律と瞳が、向き合って話をする時間が欲しいのよ。その時間をくれるなら、あなたに向けた銃を下すわ。 交渉成立、ね。思ったよりも楽しかったわ。母親に銃を向けるというのも、なかなかにスリリングね。 まだ、わからないわ。私があなたを超えられたかどうかは、これから、あのふたりが示してくれる。 ええ。それで間違いないわ。 ……好きにして。もうあなたの頭には、銃は向けられていないわ。 ……ちっとも嬉しくない。 今さら何を……? ……! 何を言っているの? そんなことをして、いったい誰が得をすると……。 あなたを殺して、なぜ私たちが救われることになるのよ? ……あっ……! ……確かに私は、綾名玄斗を殺害する時、伊織の影響力を利用している……それに……律のつらい思いが癒えているというなら……私が殺人を犯さなければ、京介も腕と眼を失わずに済む……。 京介……。 私の使っていた部屋……そのままにしておいてくれたのね。 相変わらず気が利くわね。京介にも見習わせたいわ。嫌味なところは除いてね。 ううん。これでいいのよ。取り返しのつかない過ちを犯したことを、忘れないために。 ねえ、律はこれからどうなるの? 例えば……律が多数の人を巻き添えにして、研究所を破壊したことについて。律が無理やり連れてこられた被験者だったからって、何もなしで済まされるわけは……。 えっ……? …………。……天菱の客船を沈没させたことについては? あなたが紳士だなんて、初めて聞いたわ。 ……そうね。きっと律なら……。 どうする……とは? …………。 ……少し、釈放の期間を延ばしてもらおうと思っているのよ。 律が、この世界からいなくなるまで。私が隣にいられる間。 いろいろ思いがある。そのうえで、その結論に至ったのだけれど……今ここで何を言ったところで、言い訳になってしまうでしょう。ただ、ひとつだけ言うとするなら……真理たちによって変えてもらった自分は確かにここにいるけれど……伊織の生き方によって変わった自分も、やっぱり、ここにいるのよ。あの女のことは嫌いでも、それまで否定したくはない。それが、過去を積み上げて辿り着いた今を、認めるってことじゃないかって……。……ここまでにしておくわ。だって、口実を並べ立てるなんて……ちっとも美しくないでしょ? それは……理屈から言えばそうでしょうけど……。 それって…… 紳士かどうかはわからないけど、あなたが優しい人だってことは嫌と言うほどわかったわ。 そうね。そういうことにしておきましょう。 ああ、私たちのことならおかまいなく。他に行くところがないだけだから。 取引と言ってもずっと拘束されるわけでもなし。 まだ監視付きの身分で、軽々しく働くわけにもいかないわよ。 そうなのよね。就職したことはないし、勉強は家庭教師だったし……。 私が面接官だったら、カウンセリングを受けに行くように勧めると思うわ。 これで私の5連勝ね。 そうね。確かにこのままここにいても不毛だわ。雪弥のように言えば、誰も儲からない。私と律はもっと社会に貢献すべきなのよ。 京介もそう思うでしょ? つまりそれは、私たちに事務所の仕事を手伝わせてくれると解釈してもいいわね? 『は?』じゃないわ。あなたのほかに、どこの誰が社会貢献の機会をくれるっていうの? 依頼が来ていたら、手伝わせてもらえたわけ? チャンスは巡ってきたわ。あとは所長さんの決断次第ね。 話がわかるわね。京介のそういうところ嫌いじゃないわ。 ……ふう。家出猫は、そっちの道を左に行ったみたいよ。いったん足取りを掴めてしまえば過去視で追えるから、あとはラクなものね。 せっかく二手に分かれたんだし、わざわざ合流することもないでしょう……それに、どうせなら名探偵を出し抜いてやりたいしね。 ………………。いったい何の話なのかわからないわ。 ……ちゃんと隠せてると思ってたんだけど? ババ抜きのジョーカーの位置は見抜けないのに……もう……。 ……それもそうね。つまり、そういうわけで、恋愛のことは律に先を越されたみたいよ。 “まだ”ってことは、そうなる予定があるってことよね。 それにしても意外ね。あの男、手が早そうに見えるのに何もしてないだなんて。 ふーん。“待ってる”……ね……へえ? どうせ、紳士を気取った配慮でしょ。なにせ私たち、恋愛経験ゼロだから。 きっと手玉に取られるわよ。あの男、今でこそ女っ気ないけど、就職する以前はかなりのものだったって聞いてるわ。 婚約者がいるよりマシでしょ? 勝負しようにも、相手が悪すぎるわ。 じゃあ律は、見込みがあると思う? 下手な慰めよりはいいけど……まあ、これは、悪いばかりの話でもないわ。こうして律と、恋の話ができるんだもの。それだけで、私は……。 ねえ、律……私、最近になって、あることを思うようになったの。 おそらく、律も同じことを思ってると思うわ……生きててよかった、って。 これ、どういうことなわけ? なんで家出猫が2匹もいるの? 私たちが捕まえてきた猫には、どこにも傷痕はないわね……。 くっ……。名探偵を出し抜いてやったと思ったのに……。 どうかしたの? 急に怯えて……。 まったくもう……遠回しなノロケ? ……真理が……!? あり得ないわ……。 京介、あなたいったい何を言ったの? 聞くのが怖いけど……。 誰に対しての義務なのよ……。まあいいわ。無理に聞かないほうがよさそうだもの。この猫の名前は、女3人で仲良く考えましょ。京介は不参加で。 もういっそ、『京2号』とかでいいんじゃない? もし、本当にクローン実験が成功していたのなら……瞳と全く同じものを持った存在を生み出せるはず。リスクを負ってまで、瞳を狙う理由はないわね。 え……? ……私? それはそうなんだけど……えーと、そうね……名前……名前、ね……。…………。……『ディミートリアス』? ……いいわ。みなまで言わなくても。わかってる……わかってるから……。 ……そうなの? …………へっ? …………。……名付け親は辞退するわ。こんなに恥ずかしい思いをするのは、一度きりで十分よ。 そこの名探偵さん? そいうことは言わなくていいのよ? ……女の友情って、いったい何なのかしらね。 ……わからない? ディミートリアスはね、恋人がいる人を好きになってしまったの。そういうのって、ついつい同情してしまうものでしょ? ……はぁ。 ここまでくると、むしろ、尊敬の念を抱くわ。 当たり前でしょ。とっくのとう、よ。今さら何を言ってるの? そうね。せっかく、連絡する口実ができたんだし、用件だけで済ませるのはもったいないわ。 そう。押しよ。男が押しに弱いことは、もう真理が証明してくれたわ。 難しいわね。あの男、紳士のつもりでいるから、弱った女には手を出さないわ。 こんにちは。遊びに来たわ。 旅費は雪弥に出してもらっているからいいけど、やっぱり日本は遠いわね。いっそ、この街に引っ越してこようかしら。 じゃあ、前向きに考えておくわ。 ああ、それは記憶が繋がったから、ね。 ええ、そう。……と言っても、最初は記憶が繋がってはいなかったのよ。記憶が繋がった京介が私に会いに来てから、過去改変をしたの。8月31日より前の時点で、私が京介に会いに行くように仕向けた。8月31日以前よりも前に京介のことを理解できたから、私も一緒に記憶が繋がった。話を戻すけど、別な時間軸では、私と律には伊織という義理の母がいたのよ。いい母親ではなかったし、好きでもなかったけど、やっぱり影響はあったんでしょうね。その時の私の口調は、伊織に、どこか似ていた。その時間軸の記憶に引っぱられて、私の口調は変わってしまったというわけ。 律からしたらそうよね。京介にしてみれば、今の方がしっくりくるでしょ? あのねえ……私の視点からすれば、今の京介には違和感しか感じないわ。義手と義眼のついてない京介なんて、いっそ気持ち悪いくらいよ。 とは言え、それは、私が過ちを犯さずに済んだということだから、悪い話でもないわね……そういえば、玄斗さんは? 今はいないの? 残念ね。会いたかったのに。 そんなに私たち、嫌われてたっけ? お互い様だって言ってるのに。まったくもう……自分を殺した犯人に負い目を感じて、いったいどうしようって言うのよ……。 ……玄斗さんで思い出した。律、体の具合はどう? ちゃんと薬は飲んだ? 本当に、玄斗さんを殺さなくてよかったわ……あの薬って、いつ頃から研究を始めたの? 私、本当にバッドタイミングで復讐しちゃったわけね……。 “月子ちゃん”だなんて……私のことも、遠慮なく“姉さん”と呼んでくれていいのよ。 言ってなかったと思うけど、私の誕生日、律よりも早いのよ。 律が瞳の姉だと言うなら、私も姉になるでしょう? はぁ……。姉として、妹ふたりの今後が心配になるわ。 はぁ……。……シスコン。 いいえ、何も。風の音じゃない? ……シスコン。 いいえ、何も。犬の鳴き声じゃない? そうなの? でも、“チケット”って言ってなかった? 気が利き過ぎてて、むしろ腹が立つわ……。 そうね。日本に来たなら、日本のシンガーを聞いてみたいわ。 せっかく日本に来たんだし、本場のお寿司が食べたいわね。 真理の希望って何だったっけ? ……ロンドンでも、気軽に食べられるわね……。 私、ハンバーガーはむしろ、チープな方が好きなのよね…… それはかまわないけど……支社の人がドライバーなんじゃないの? はぁ……。少なくとも私はそれでは落ちないから、部下に任せてもいんじゃない? 律はそういうの興味ないみたいだし、真理はもう相手がいるし、残る瞳は……。 ……シス。 いいえ、何も。京介の腹の音じゃない? …………京介。 私だけ遠慮したわ。急に、大事な用ができたってことでね。 バカね。あなたに用があったってことでしょ? ねえ、京介……私はあなたに問いたいのよ……本当に、これでよかったのかしら? わかってるくせに。私たちは、あの8月31日に、過去を変えてしまってよかったの? ねえ、私たち、過去を変えられるからって……目の前にある“今”を、ないがしろにしてはいなかった? つらいことがあふれていても、いろんな人たちが精一杯生きて、そして築きあげた“今”から……。……目を背けてはいなかったかしら? その続きは言わなくていいわ。答えは要らない。私はただ、問いかけたかっただけ。だって、どうしようもないわ。ねえ、私、とても幸せよ。こうして過ごす日々が、どうしようもなく幸せ。優しい家族に守られて、友人にも恵まれて……律だって、生き延びることができて……。……幸せ過ぎるのよ。私がIXGに協力すれば、雪弥がいずれ、あの過去をやり直せるようにしてくれるかもしれない。 でも、今さら……どうやってそれができるの? 幸せなのよ……。どうしようもなく……どうしたって、もう捨てられないでしょ? いいえ。本題は別にあるわ。ねえ、京介、仕事なんてサボってしまって、ふたりで食事に行きましょうよ。 あのねえ……。どうしてそうなるのよ。“この時間軸”私は、あなたの恋心を抱いたことはないわ。一瞬たりとも……ね。 ふたりで、“反省会”をしましょ? そうよ。だって、あの時間軸の記憶があるのは、私たちふたりだけでしょう? 結局、何を思ってみたところで、私たちは、これからの日々を大切にしていくしかない。それなら、よりよい未来のために、ふたりきりで過去を振り返りましょうよ。伊織がいた、あの時のことを……。 それに……私……どうしても、本場のお寿司が食べたいのよ。……ね? そういうのも、京介らしくていいんじゃないかしら……ほんと、もったいないわね。 そういうことじゃないのよ。京介とふたりきりで食事だなんて、きっと、一生の思い出になったでしょうに……前の時間軸なら、ね。 ……違う店? 寿司屋ではなく? いい提案だけれど、残念ながら……今ここで泣いてしまいそうよ……悲しくて、ね。 いいえ。何も。あなたの配慮は間違ってないわ。何も間違ってない……心配しないで。たいしたことじゃないのよ。本当に……私の初恋の相手は、もう、この時間軸にはいないの……ただ、それだけのこと。 あら、どうしたの? はぁ……。……またなの? ……そりゃ、バレるわよ。いつもここじゃない。ほとんど待ち合わせ場所だわ。 まあ見てなさい。すぐにわかるから。 そう。要するに、ケンカよ。ただのケンカ。いつものやつ。 本当に……毎回毎回、よくもこんな低レベルの争いを本気でやれるわね。 こっちはいい迷惑なのよ。瞳のところには遠慮して駆け込まないみたいだけど……。 ケンカした時、決まって雪弥が逃げ込む場所はこの事務所。そして、律の場合は私の家。先月なんか、3日連続で律がうちに来たのよ? その3回とも雪弥が迎えに来て……。……バカらしいったらないわ。いくらなんでもお腹いっぱいよ。 ……ねえ、瞳、わかる? 3日連続で、こういう茶番を見せられた私の気持ち。 ずっとこんな調子なのに、このふたり、いっこうに別れる気配がないのよね。 本当に邪魔よ……。私に恋人ができないのは、これを見せつけられるせいね。 律と雪弥が来てたの。いつものアレよ。アレ。 ……私も、律に内緒で引っ越そうかしら。 はぁ……。どうして私の周りのカップルって、こんなのばっかり……。